「救い」を信じて(受洗者記念文集)

和田 深雪(仮名)

 私が洗礼を受けようと思ったのは、洗礼によって神様の「救い」というものに、もっと深く触れてみたいと思ったからです。
 そもそも神様を知るきっかけとなったのは、私が五年生のときにカトリックの学校に編入した事です。その前に兄がカトリックの学校に入っていましたが、あまり身近に感じることはなく、「私立の学校ってすごいんだな〜」という位にしか思っていませんでした。カトリックの学校に入ったことで、「祈り」や「宗教」、「神様」、「イエス様」の事を身近に感じる事が出来ました。
 しかし、私はその学校になじめず、浮いていました。それは、「イベント時以外は、聖堂に出入りしてはならない」など、カトリックらしからぬ規則や、「面倒くさいことには関わらない」という教師の姿勢に疑問を持っていたのが私だけだったという事もあると思います。ですが、一番の理由は、「みんな同じ」が要求されるこの時代、私が良い意味でも悪い意味でも「みんなと違って」いたからだと思います。
 私は、中途半端な平等主義が大嫌いでした。「みんな同じ」という考え方もそうです。そういう考え方は、個々の能力を伸ばすどころか縮める事になってしまうからです。ですが、私がそのような行動をとったり、そのような事を思わせる事を話したりすると、その考え方が理解不能に思える教師や生徒は、「変な奴」という目で見るようになります。学校の居心地はどんどん悪くなるばかりで、学校に行くのが嫌になってきました。
 「こんな私を好きになったり、愛してくれたりする人は誰もいないのか」私がそんな事を毎日悶々と考えていた時、学校の宗教の時間で、こんな事を習いました。

 「どんな人も、神様は平等に愛し、救ってくださる」

 「どんな人にも」。
 私も神様に愛されていて、救われるんだ!
 そう感じる事が出来ました。とても嬉しかったです。
 多摩教会に通うようになってから、「必ず救われる」という晴佐久神父様の言葉を聞き、再び嬉しくなりました。「必ず救われるから、大丈夫」。その言葉を聞き、私は「救い」についてもっと深く触れてみたいと思い、洗礼を受ける決心をしたのです。
 4月4日。私にとっては、洗礼式であり、また、中学校の入学式でもある日。新しい、生まれ変わりの日。セシリア・和田深雪として、新しく神様の子供となった日。私にとって、一生忘れられない日となると思います。
 何も変わらないかもしれません。また同じ事を繰り返す事になるのかもしれません。けれど、「私は救われる」。もう何も怖くはありません。新しい神の子として、一歩を踏み出せたのですから。


(ご本人の希望により、漢字、文章体裁など、すべて原文ママ)