ひとりぼっち・・・?(受洗者記念文集)

ブリジッタ 山下 大輔(あずさ)

 先日、4月19日に洗礼をお受けして、心の変化、受けるまでの気持ちを書かせていただきます。
 昨年、9月6日、8年間、私のことを理解し、共に暮らし、常に側で支えてくれていた、最愛の人が天に召されてしまいました。乳癌でした。
 1年半による苦しい投薬治療にもかかわらず、常に笑顔で、元気な時と同じように仕事から帰ってきた私を出迎え、仕事の愚痴やその日あった楽しいこと、悲しいことを、時に笑顔で、時に一緒に泣いてくれる優しい人でした。
葬儀が終わった後、私は、彼女と同じ場所に行くことしか考えていませんでした。富士山へ行こうか、彼女の実家の仙台の海に潜ろうか等考えていました。この海が、名取のゆりあげという地区で、とてもきれいな海で、よく二人でお散歩したんです。今はがれきもなくなり、思い出と共に更地になってしまいました。

 2週間ほど家に引きこもり、何もすることができず、毎日遺影とにらめっこ、泣き続けていました。遺品整理のため手伝いに来た彼女の親戚が心配し、「少し外、散歩しておいで」と言われ、あまり乗り気ではなかったのですが散歩に出ました。
 その散歩の途中、不意に見知らぬ女性に、声をかけられました。振り向くと見慣れないシスターが、私に、「つらかったでしょう。お疲れさまでした」と、いきなり言われ、ロザリオをくれました。そして、「一度、教会に来てごらんなさい」と言われ、去っていかれました。
 近くの修道女会で、その週の日曜日、高校以来のミサに参加しました。少し通ううち、「洗礼を受けてみては」と言われ、「きっと見える世界が変わるよ」と。でも受けるには教会の共同体に所属しなくてはいけないよと言われ、その週の日曜、近くの教会に足を運びました。
 受け入れてもらえませんでした。《白い羊の中の、黒い羊はいじめられるから》と・・・・。
 理由は、子どもやご近所に悪影響が出るかもしれないということでした。

 そのことを管区長様に伝えたところ、「一人面白い神父さんがいるから、そこに電話してみたら」と晴佐久神父様を紹介していただきました。
 電話で、かくかくしかじかと伝えたところ、「変わっててもいいじゃない! 一度来なさいな」と。私自身、神父様のお名前は、著書を持っていて10年ほど前から存じていましたが、イメージが少し違い戸惑いましたが、年明け、多摩教会に初めてうかがって、第一印象は(なんか自分の家みたい・・・)でした。
 皆さん優しく、子どもは元気で、神父様に初めてご挨拶した時は、「何だ、ふつうじゃん」と思わぬ返しを頂き、心で、(ただいま)って思いました。
 志願書を出し、神父様に許可を頂き、あと2カ月で彼女のいるお空に近づけるんだと思い、わくわくのんびり、準備をしてました。しかし、入門講座や他の所で、他の志願者の方の洗礼の思いや、心構えを聞いているうち、私の洗礼を受けたい理由が他の人ほど、熱くないんじゃないか? 受けるに値しないんじゃないか? と不安な日々を過ごしていました。
 辞退しようか考えてたとき、仲良くなった人に、「理由なんていいんだよ。あなたは、選ばれたんだから。あずはあずのままでいいんだよ」と言われ、(これが私の道なんだ)って思いました。

 洗礼式の日、味わったことのない緊張を抱え、席に着きました。自分の番が来るまで震えが止まらず、頭の中に、「お前なんかが受けていいの?」、「今ならやめれるよ」と、いろんな言葉が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・・・・。
 いざ順番が来て、水をかけられたとき、不思議と震えは消え、頭に浮かんでいた言葉もどっかにいってました。
 他の皆さんほど、熱く燃える理由、想いにはかないませんが、何というかほっとして、この気持ちをいろんな人に知ってもらいたい、聞いてもらってもいいんだって。
 天の彼女も、「あら、いらっしゃい」って言ってくれてるみたいに、遺影の顔が笑顔になっていました。

 これからは、CN(クリスチャン・ネーム)に頂いた、「ブリジッタ」に恥じることなく、人のために、皆のために、できることをしていきたいと思います。かなりの変わり者ですが、皆さま、これからよろしくお願いいたします。
 まとまりのない文書ですが、お世話になります。

 みんな、ただいま!!