何でもイエスさまと一緒に

原田 昌美(仮名)

 わたしはカトリックの、ナースも全員シスターという病院で、8月15日被昇天祭に生まれました。その時点でもうすでに神様はわたしをカトリックの洗礼に導いていたと信じます。

 洗礼を受けたものの、なんだか呆然としていて、目の前をいろんな人や物事がテレビのように移り変わるような気がしています・・。
 自分が行動しているような気がしません。たぶん、もう死んで、神のいのちに生かされているってこういうことなんだと思います。全部自分がやっている気がしません。「うちではキリストが家事をやっている」という感じでした。しばらくたって何をしてもつきまとう、この薄いベールをかぶったような感じはうすらぎましたが、相変わらず、わたしがしている日常的ないろいろなことの何もかもが突然、神様のためにしているような気がしています。親のために出す食事、これも神様のお食事のような気がしています。入れるハーブティー、自分が飲むのですが神様にささげるお茶だと思います。何でも丁寧にやるようになりました。

 洗礼前の3日間、わたしは祈りに開け暮れていろいろ本を読んで準備して、などと考えていました。有名どころで祈ったり、今まで洗礼準備に1年間読んできた本をおさらいしたりとか。
 でも、神様はわたしからすべての自力を奪い去り、風邪をお与えになりました。鼻風邪で、薬を飲むと大変に眠いのです。ぼうっと力を抜いて過ごし、洗礼とは圧倒的に神が授けるもの、自分で努力して授かる恵みではないという神父様の教えが本当によくわかりました。
 わたしは少し脳みそ教っぽいみたいだから。理屈で考えて神様と対峙しようとしているみたいだから。わたしが考えて洗礼を受けようと思ったんじゃない。そう思わせてくださる方がいらして、そのお方が神様なのだ。風邪は、洗礼を受ける1時間前に治りました。・・・やっぱり神が送った風邪だったのです。

 昨日今日と、わたしはミサ中に水を飲まねばならないことで苦しんでいました。
 わたしは心の病ですが、のどの渇く薬を2種類飲んでいます。1年ミサに出て、誰にも言われたことがなかったのに、洗礼を受けて翌日の復活祭で、隣の若い人に注意されたのです。ご聖体拝領一時間前は飲食禁止だということを聞いたことがあるのを思い出しました。
 この隣の人のひと言にずいぶん悩み苦しみ、水が飲めないからミサにもう出たくない、はては洗礼を受けて2日目でカトリックで洗礼を受けたことを後悔し、水のことなんか言わないプロテスタントに行こうとまで思っていたとき、神様は友達を通してネットで探しまわってくれ、「だいじょうぶ! ここに『病人はこの義務から免除』と書いてあるよ」とメールをくれました。すっかり元気になって、徹夜祭以来疲れてお花見にも行っていなかったのですが、起きて桜を見に行きました。

 洗礼を受けてから、わたしと神様はいつも、特にわたしが感動しているときに一緒にいます。
 そのドラマがあった後桜を見ていて、わたしの目を通して神の目が後ろにある気がしました。神がわたしの目の後ろにいて(頭蓋骨のなかにいる)一緒に桜を見ている。試練の後の桜は格別に美しかった。神様と一体になって見る桜は格別でした。別格。
 お風呂に入っても、自分ひとりで入っているのでなく、神様がぴったりわたしの背中にはり付いていて、神様と一緒にお風呂に入っている感じがしてならない。このごろ背中がなんだかあったかいです。背後すぐのところに神様がいる。神の体温を感じる。やっぱり神様はわたしのところに来たんだ。(ときどき振り返っちゃいます)。ちゃんとご聖体をもう二度いただいた。
 そういえば洗礼に先立って、イエスさまが夢枕に2度お立ちになりました。顔のわからないお兄さんだかおじさんだかわからない男の人が、実に優しく、「だいじょうぶなんだよ」というようなことを、わたしがいろいろ疑問をぶつけるのにいちいち長いことお答えになってくださる夢です。
 それはそれは優しい夢で、起きた時に体が軽くなってふわふわ浮いている感じがする夢でした。洗礼2週間前だったと思います。

 都内の別の教会と多摩教会の入門講座に1年通って、ミサに出るようになり、わたしはずいぶん変わりました。
 直そうとしても直せなかった20年以上前からの癖、顎がちょっといつも突き出ていて、生意気そうに見えて写真うつりもひどいのですが、それが直りました。意識しなくてもいつも自然に顎をひいています。神を畏れるようになったのだと思います。
 そしてわたしの性格も、病気で病院に長いこと入院していた苦しみのためにせまく縮こまっていたのが、ほがらかになりのびやかになり、だれとでもニコニコ親切な会話をこころがけ、まったく知らない人との会話を楽しむようになりました。むしろ、知らない人との方が心を開き合える感じがして、一瞬心と心が触れ合ったときスパークが散る。それを楽しんでいます。
 わたしと会話していると、皆さんは明るく顔を照らしてお話しになります。わたしは以前は心の病で心を閉ざして、知らない人に心を開くのが難しく、おつかいに行くのも今ですらまだ難しいですが(人と対峙しなければならないので、スーパーに行くのが苦痛なのです。買い物客もいやだし店員はもっといやだ)でも教会ではわたしは明るくふるまい、「魅力的だ」とさえいわれるようにだんだんなりました。
 教会に通うことがデイケアとか作業所に通うのと同じ効果があるのです。

 これを読んでいる心の病の皆さん、「一緒に晴佐久神父様の福音を聞きましょうよ」。 わたしの心の病はカトリックに通うようになったこの1年で本当によくなりましたから。
 どんなに悲しいことがあっても一滴も涙が出ないようにする薬をわたしは飲んでいます。6年前、激しいショックなことがあって毎晩遅くまで祈りましたが、涙は出ませんでした。それが、この1年で、いろんなとき、特にミサのときに自然に涙が流れてときには大泣きするようになりました。
 わたしの心の病は、一生治らない病なので、薬は飲みますが、ですから治ってはいませんが、でももう癒されたと信じます。「主の平和」がわたしの心に、今はきています。時々波が立つことがあっても、洗礼を受けてからずずいとすぐに聖霊がやってきて(波を蹴立ててやってくる)なんとかしてくれるようになりました。あの「ミサ中の水飲み事件」然り。
 ありがとう神様。あなたの御業は、ほんとにほんとに素晴らしい。