導かれて(受洗者記念文集)

奥山 美怜(仮名)

 「エクレシア・・・呼ばれた者の集まりへようこそ、と申し上げたい。神さまが、今日ここに私達を集めて下さいました」 母の葬儀ミサからまだ幾日も経たない1月末の夜、初めて参加した入門講座で晴佐久神父様がこう語りはじめられました。

 長い闘病生活を送った母の最期を見守り、私は深い悲しみや寂しさを抱えながらも、それ以上にとても不思議な自分でも止めようのない、強く熱い思いに揺り動かされていました。私にとって決定的に大切な何か・・・。そのことに気付かされ始めていたのです。
 神父様のお話を聞きながら、私が本当に辿り着くべき場所はここだった・・・と静かな感動が押し寄せてきました。本当に大切なもの…でその場所は満ちていたからです。

 子供の頃から読書好きだった私の本棚には、八木重吉、遠藤周作、井上洋治などの本が増え、大学の礼拝堂で過ごす時間もとても好きでした。両親は私が20代の頃からそれぞれ洗礼を受けましたが、私自身はずっと中途半端なまま、自分と神との直接的な出逢いを求め続けていたように思います。
 20代から30代の希望に満ちて人生を切り開く時期に、私は大きな試練を受けました。将来を思い描き歩んで行きたかった道を進むことはできず、この世の思惑や定めに振り回されながら、曲がりくねった長い道を歩きはじめざるを得なくなったのです。でもその道はまた、私が自分自身を見失わないために敢えて自ら選んだ道でもありました。
 様々な思いに苦しみながら一人で未熟な祈りを続けていた私に、今振り返ると神さまはずっと寄り添っていてくださいました。そしていつの間にか、あの日々があったからこそ私が今ここに辿り着くことができ、その時に感じた痛みや苦しみはすべて、神さまの深い摂理の中にある恵みだったのではないかと、感謝のうちに思えるようになっていたのです。心細く悩みながら歩いていた人生の途中で遭遇した出来事や人、言葉は、神さまからのメッセージだったのでは・・・。神のみ旨は、私の願いや想像をはるかに超えた深いものでした。

 母のことを記すのはまだ少し勇気がいることなのですが、難しい病を得て最後には話すこと、食べること、自分の手足を動かすこともできない日々が長く続きました。その母がかろうじて声を出せた頃に、ゆっくりと私に伝えてくれた言葉は、

 「だい・・・じょうぶ」「お・ゆ・だ・ね」だったのです。

 晴佐久神父様の、福音を語られるまっすぐな言葉と祈りに導かれ、私は洗礼を授けていただくことが出来ました。ミサで包み込まれる歌声、合わせる祈りの力の素晴らしさ…その中の一粒になれた今、言葉に表すことのできない静かな安心感に包まれています。
 小さく、謙遜なものとなり、「神さま・・・」と無心に祈ることができますように。
 生まれたばかりの二十六つ子の一人として、皆様に導いていただけますように。
 入門係の皆様、代母のS様、そして晴佐久神父様 本当に有難うございました。

 そして、母に、心から感謝をこめて。