巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

ようこそ、多摩教会へ

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 神父になってから、講演というものを頼まれるようになりなりました。自分が講演をするなど、それこそ想定外のことだったので戸惑うことも多く、もともと人前で話すのが苦手だということもあって、初めのころはすいぶん気後れしていたものです。
 とはいえ、何しろ聖霊の働きを信じて福音を語るわけですから、そこには当然驚くべき救いの実りがたくさん生まれるわけで、その後に届くお礼の手紙や感動的な報告に励まされるうちに、次第に出かけることが苦ではなくなって来ました。
 本を出版するようになってからは依頼も増え、気がつけば全国区になっていて、先ほど過去の講演依頼のファイルで数えてみたら、北は旭川から南は那覇まで、東京以外で講演した場所が67ヶ所ありました。どんな所かというと、たとえば去年は九州から呼ばれる機会が多かったのですが、一年間で、九州だけで福岡、諫早、別府、熊本、鹿児島(北薩地区)の5箇所でお話しています。
 最近ではプロテスタント教会からの講演依頼も増えて、今年は聖公会の教区大会と牧師の研修会、日本基督教団の婦人大会、ナザレン教団の教役者研修会でお話しました。
今年と言えば被災地での講演もありましたし、先日の茅ヶ崎での講演会は、震災の時代にあって、不安や緊張で心を病む人もいる現実の中、希望の福音を語ってほしいという依頼でした。

 いつでも、どこでも、だれでも、どんな状況でも、人々は福音を必要としています。それは水や空気にも似て、人間は福音なしには生きていけないのです。多摩教会の方はご存知でしょうが、わたしの話は初めから終わりまで全て福音です。それしか話せませんし、話すつもりもありません。
 茅ヶ崎の講演会でも、もちろん全体として福音を語っているわけですが、1分間にひとつは、直接的な福音を織り込むように工夫しながらお話しました。
 「神さまは100パーセント愛であり、あなたのことを100パーセント愛しています」
 「神はあなたを喜ばせるために生みました。決して怖がらせるためではありません」
 「どれほどの災害であっても、どれほどの放射能であっても、神の愛から私たちを引き離すことはできません」
 「わたしたちの目には恐ろしい悪と見えるものも、神は善に変える力をお持ちです」
 「すべては途中であり、誕生へのプロセスであり、産みの苦しみに過ぎないのです」
 「あらゆる試練には聖なる意味があります。それを知らないから苦しむのです」
 「神を信じるならば、なにひとつ失っていなかったことに気づくでしょう」
 「今こそ、イエスの言葉を信じましょう。『恐れるな!』というイエスの宣言を」
 「今、ここで、こうして福音を聞いているあなたのうちに、救いは実現しています」
 「あなたはすでに永遠の命を得ています。いずれあなたは、天に生まれるのです」
 「そろそろ講演も終わりの時間になりました。続きは天国で」(笑)
とまあ、そんな感じです。
 しかし、これってわざわざ、特別な人が特別な場で話すようなことでしょうか。頼まれた以上講演しますが、これまたご存知の通りわたしは話の準備ができませんし、その場で聖霊の働くままに目の前の人に単純な福音を語るだけなわけで、「準備なしに聖霊の働くまま単純に」なんてことなら、信者ならだれでも、日常していることであるはずではないでしょうか。上記のようなワンフレーズを話せないという人はいないでしょう。そして、そんなひとことを、いまの時代にどれほど多くの人が必要としていることでしょうか。

 信者のみなさんの存在自体が福音です。神さまは、みなさんのことばと行いをとおして、福音を世界に広めようとしておられます。それこそは、全国を講演して回ることなんかよりいっそう本質的で力があり、多くの実りをもたらして人々を救う、福音宣教の王道なのです。講演はむしろ、そのような信徒を励ますためにあるのです。
 講演会の参加者で、東京に来たついでに多摩教会に寄った、という方が多くいます。主日のミサにも、毎週必ずと言っていいほど、そういう方が来ています。福音をさらに確かめ、いっそう深めたいという切実な思いで来ているのです。ミサで見慣れない方を見かけたら、ぜひ声をかけてください。そして、軽食サービスに招き、お茶を飲み、福音を語ってください。必ず共通の話題が見つかり、心が通い合い、聖霊の働きを実感でき、「さすが多摩教会」と喜んでもらえるはず。そしてそれが、平日の福音宣言への入り口にもなるはず。
 「ようこそ、多摩教会へ」。そういうみなさん自身が、多摩教会なのです。