巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「乞田川散歩」

乞田川散歩

主任司祭 晴佐久 昌英

 多摩教会の前を流れている川は、乞田川(こったがわ)といいます。
 唐木田の尾根の雑木林あたりから流れ出して、多摩センターや永山付近を通り、多摩教会の前を過ぎて、ほどなく多摩川へ流れ落ちる、5キロメートルほどの穏やかな川です。
 一見なんということのない川ですが、その流れのほとりに6年間暮らしている住人としてはなんとも慕わしく、四季折々の川辺の風情を味わっているうちに、いつしかかけがえのない隣人となりました。
 乞田川のほとりを、いつも薄暮の時分に散歩します。ちょうど教会の前は遊歩道が整備されていて絶好の散歩道ですから、ついつい川のせせらぎに誘われて歩いてしまいます。
 神父はどうしても運動不足になりがちですし、頭ばかり使っていますので、このお誘いはありがたい。悩める人の相談を何人も連続して聞いたり、すでに締め切りの過ぎた原稿を集中して書きあげたときなどは、我知らず教会の門を出て、目の前の馬引沢橋(まひきさわばし)の上で深呼吸。気づけばそのまま、無心に川のほとりを散歩しています。
 川筋はいつも程よい風が抜け、のどかなせせらぎが心に語りかけてきます。
 「まあ、のんびりやりましょう。水は流れゆくまま、時も流れゆくまま・・・」

 時の流れゆくままに、乞田川歳時記を。
 春先は、薄霞の沈丁花。いよいよ新しい季節が始まるときの、胸がキュンとする香りです。川沿いの農地に点在する紅梅白梅にも胸ときめき、ああ、もうすぐこの川も満開の桜に包まれるんだなあ、それにしても一年、早いねえ・・・と、ひとりごちます。
 春の盛りは、桜並木は言うに及びませんが、見逃せないのが川岸の百花繚乱。桃色、黄色、橙、白、水色、すみれ色などなどが絶妙な配置で咲き誇り、だれかが寄せ植えにしたとしか思えない奇跡の箱庭には、思わず「おみごと!」と声をかけるしかありません。
 初夏は、何と言ってもカルガモの親子。今年の一番人気は、子ども9羽の一家でした。母親の後を9羽の子どもたちが一列で必死に付いていく姿には、遊歩道を行く人全員、足を止めます。ともかく、かわいすぎる。どうか無事に育ってほしいと祈るばかり。
 盛夏の入道雲も、はずせない。川沿いの空は広く、沸き立つ積乱雲を見るのに絶好なのです。今夏は特に大気の状態が不安定で、手を合わせたくなるほど見事な金色の雲の峰を何度拝んだことか。夕暮れ時は頂が茜に染まって、もはや西方浄土と言うしかなく。
 そして、9月。その空に、うろこ雲。ススキの穂も揺れて、気づけば桜の葉も色づき始めています。個人的には最も美しい紅葉は桜の葉っぱだと思うのですが、どうでしょう。鮮やかな緋色と黄色のグラデーション。17時半には鈴虫が鳴きだす、乞田川沿いの道です。
 実は先ほども歩いてきたところですが、教会から一つ下の南田橋のたもとでは、気の早い金木犀から、忘れかけていた切ない思い出が香り立っていて、新しい季節の始まりの予感に、胸がキュンとしました。ふと、マフラーの匂いを思い出しました。

 そうして、散歩を終えて戻ってくると、薄暮の風景の中にひときわ明るく「カトリック多摩教会」の文字が光っています。なんて美しい光景でしょうか。そこは、神の家。キリストと出会う場所。聖霊の喜びが満ちているところ。何もかもが移ろいゆくこの世界の中で、決して変わることのない永遠のみことばが語られる救いの教会が、こうして確かに存在することは、どれほど尊いことでしょうか。
 橋のたもとに立ち、川のほとりに建つ美しい聖堂を眺めていると、自分たちはなんと恵まれた存在なのだろうという感動が沸き起こって来ます。
 さあ、そろそろ帰るとしましょう。もうすぐ、夜の入門講座の人たちが集まって来る時間です。永遠の福音を語らなくてはなりません。


【乞田川の周辺】
少しですが、乞田川沿いの様子をご紹介いたします。それぞれの画像は、クリックすると拡大表示されます。