巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天の救い 地の救い 人の救い

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 先日プロテスタント教会の雑誌での誌上対談のために牧師先生とお話ししていたとき、わたしが「神はすべての人を救う」というようなことを言ったら、「わたしたちの教派ではそれを言うと異端になる」と言われて驚いたことがありました。「聖書に書いてある通り、主の復活を信じて、キリストを主であると告白しないと救われない」と。
 これは諸宗教との対話でも話題になるところですし、「じゃあ、洗礼を受けていないウチのダンナは地獄なのね」ということにもなり、要は「救いとは何か」という私たちの信仰の核心部分であるにもかかわらず、きちんと整理されて語られていないために無用な対立や混乱を生んでいるところでもあると思えたので、対談席上自分の信ずるところをお話ししました。誌上では割愛されるかもしれませんので、対談ではお話しできなかったことも含め、簡単にまとめておきます。キーワードは「天の救い」「地の救い」「人の救い」です。大河ドラマにちなんで、天地人(てんちじん)、と覚えておいてください。

 まず、「神はすべての人を救う」、これを「天の救い」と呼びましょう。
 これは決して譲れない大前提です。神は愛であり、すべての神の子を親心によって生んだのであり、神の愛は完全で永遠ですから、全能の神の計り知れない恩寵の内にすべての人が救われるのは当然のことです。わたしたちは生まれる前から救いのわざにあずかっているし、いつの日か神に召されて救いの完成にあずかります。
 天の救いは神の本性に関わることであって、地での一切の条件と関係ありません。少し子供っぽい言い方をするなら、どんな悪い子でも神さまは愛してくださっているから、みんな必ず天国に行けるよ、っていうようなことです。これについては「すべての人が救われる」と断言できます。

 この天の救いを知って、信じて、安心と喜びと希望に満たされ、それを人にも知らせ、天の救いに与かるにふさわしい生き方をすることを、「地の救い」と呼ぶことにします。
 これはこの世での救いのことですから、これについては「すべての人が救われる」とは言えません。現に、天の救いを知らないために苦しんでいる大勢の人がいます。「罪」とはその状態のことです。
 だからこそ神は、天の救いを知らせるためにイエス・キリストを通してご自分の愛を現し、その死と復活によって、栄光にあふれる天の門を地において開いてくださいました。このキリストによって、わたしたちはだれでも天の救いを信じることが出来るようになり、信じることによって、「天の救い直結の地の救い」を生きることが出来るようになったのです。これがどれほどの恵みであるか。人々に伝えずにはいられません。

 このような究極の喜び、最高の満足に対して、その代替物としてのこの世でのさまざまな喜びや満足は、いわば「人の救い」とでもいうものです。病気が治るとか、事業が成功するとか、良縁に恵まれるとか。それを求めること自体は悪いことではありませんが、人の救いは相対的で不完全なものです。
 人の救いはあくまでも地の救いに至るための準備段階の救いですから、感謝こそせよ、そこに留まっていてはいけません。イエスさまは病気を治してくださいましたが、それは「人の救いによって、天の救いに目覚めさせ、地の救いへと導くため」です。この世を生きる限り、やがてまた病気になるかもしれません。しかしイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この救いは、地の救いです。「泣いているあなた方は幸い」という天の救いを信じた者の救いです。

 「信じる者は救われる」は真実ですが、その救いを「人の救い」として捉えるのはご利益宗教です。「天の救い」として捉えるのは勧善懲悪的裁きの宗教です。キリスト教はこれを「地の救い」として捉えます。「天の救いそのものであるキリストによって天の救いを知り、信じた者は、地の救いに与かる」ということです。
 わたしは、キリスト教によって救われました。こんなに悪い子でも天国に行けるとイエスさまに教えていただいて、本当に救われました。