巻頭言:主任司祭 豊島 治「気づきます」

気づきます

主任司祭 豊島 治

 信徒館の外装塗装も復活祭までになんとか間に合い、外観がきれいになりました。近所の人も変化に気づいて声をかけてくださいます。改修の時期なのでこれから構内の整備がつづきます。

 その準備過程で司祭館内の棚移動などをしていたら、電話機棚でかくされた壁に:

 「御国がきますように」 と祈りながら、御国に呼ばれることを恐れるのはおかしい。
 《E assurdo dire “venga il tuo regno” e temere di essere esauditi.》

 という標語(?)が貼ってあるのに気づきました。前任の神父様が忘れて置いていかれたのか、後任の神父に気づかせたくてわざと残していったのかわかりませんが、私は日頃「恐れ」を感じたときにみることにしています。

 御国がきますように。
 私たちが常にささげている「主の祈り」にあることばであり、今年の主日は主にマタイ福音書が読まれていくことから、深めることができることばです。

 「さいわい(幸い)」という言葉もマタイ福音書を読むとその存在に気づきます。神の「さいわい」をうけると、安心し、更によき福音の光に照らされながら見て→聞いて→生きて→喜ぶといういのちの原則にかえることができます。人の良し悪しや、現在ただ今の状況と全く関係なくある不動のものです。

 マタイ福音書が「神は、わたしたちとともにある(1章23節)」という感動的な救い主の誕生の言葉ではじまり、「私は世の終わりまであなたがたとともにいる(28章20節)」という復活の救い主のことばでおわるのは、それらのことが共にあるという喜びを告げているかのようです。

 マタイ福音書をきいているうちに言葉のつかいかたに「縛りを感じる」という感想をいただきました。でもそのさきにある神様からの「さいわい」に心よせて、御国の本質に期待しながら秘跡を大事に、人との愛を尊びながら、与えられた一週間を大切に過ごしていきましょう。