帰るべき場所(受洗者記念文集)

高山 光輝(仮名)

 愛人の子として生まれました。
 父の奥さんに母と自分の存在が知れ、無言電話が絶え間なくかかってきました。父の奥さんがアパートに押しかけてきました。母と父との間の口論が絶えず、母は情緒不安定になりました。その場しのぎの嘘の上塗りを重ねる父が汚らわしく思えました。
 中学校に入ると突然、人の目が恐くなり、自分の視線も制御できなくなり(目玉が自分の意に反して勝手に動き、人をジロリと見る感じになってしまう)、クラスメートから「ストレンジャー(変人)」と呼ばれ、電車では他校の生徒にも「変な奴」とからかわれ、まさに生き地獄の日々が続きました。
 就職すると、極度の対人緊張ですぐに疲労困憊(こんぱい)になってしまい、休職・退職・転職を繰り返すしかありませんでした。馬鹿正直で大人のコミュニケーションの取り方がよくわからず、職場でもプライベートでも孤立していきました。本当は寂しがり屋で人との繋がりを人一倍求めているのに。何度も自分を変えようと試みましたが失敗し、自己否定へと追い詰められていきました。苦しみから逃れたいあまり、大量服薬による自殺未遂を繰り返しました。
 父は奥さんに出て行かれ一人暮らしをしていましたが、両足に痛みを感じるのに病院に行くことを拒み、不審に思って父の部屋を尋ねると、健康保険に加入していないことが判明。それは、雪だるま式に膨らみ続ける借金があり、健康保険料を払っていないためであることが分かりました。父の借金を整理するための法的手続を取り、父に下肢静脈瘤の手術を受けさせました。そのような状況にも関わらず、父はさらに他の女性に毎月何万円ものお金を渡し続けていることが発覚。父に問うと、酒をあおってこちらに向き合おうとしない。気がつくと、僕は父のウイスキーグラスを奪って父の頭に叩きつけていました。血が流れ落ちました。
 僕と母は、父と別れて生きていったほうが、心の安定のためには望ましかったのかも知れません。しかし不安定な僕は自分だけで精いっぱいで、母を死ぬまで養っていける自信がなく、母のことを考えると、年金収入のある父を頼ってしまいました。父をあてにしているにもかかわらず、母と僕は、父のことを忌み嫌っていました。母は、安定して働けない僕に対して「お前はあの親父と一緒だ」と責めました。互いに相いれない母と父の血を引く自分の身を真っ二つに切り裂きたい、何度もそう思いました。

 ある自助グループで複数のカトリック信者と知り合ったことを契機として多摩教会を訪れました。入門講座では、神父さまや入門係の皆さん、先輩信者の方々にいつも優しく迎えていただき、心が少し温かくなりました。しかし、他の方が救われたというような神秘的体験を聞いても、「地の救い」を一向に感じられない自分とのギャップを痛感するばかりで、教会からの帰り道で落ち込むことも何度もありました。ただ、神父さまは本気で語っているとしか思えませんでした。「神はあなたを愛している」と神父さまが本気でおっしゃるならば、もう少し話を聞いてみようかな・・・、そのような感じで、半年間入門講座に通い続けました。
 神父さまは「あなたと友達になりたい」と言ってくださいました。うれしかったです。神様を実感できないことを率直に話したところ、神父さまは「仮にあなたが信じないと言ったとしても、私はあなたに洗礼を授けます。・・・なぜだか分かりますか?・・・それがあなたに必要なものだからです!」ときっぱりおっしゃいました。
 洗礼志願書を提出し、許可証にサインを受けたものの、中途半端な信仰心で洗礼を受けてよいものか悩み、またこんな自分が教会の皆さんと馴染めるのかについても不安になり、聖木曜日に教会に向かう道のりでは、洗礼の辞退も考えていました。しかし、教会に着くと、神父さまが笑顔で話しかけてくださり、辞退の言葉は口から出さずに終わりました。復活徹夜祭ミサを迎えました。額に受けるたっぷりの洗礼水に愛を感じました。教会のたくさんの方々が祝ってくださいました。ありがたく思いました。

 洗礼の恵みを受け、教会家族に加わることができ、うれしく思います。受洗の数日後、そばにいた方の携帯の着メロが鳴りました。笛の音で静かに奏でられるアメイジング・グレイスでした。心の中で歌詞を口ずさみました。「驚くべき恵み なんて甘い響きなのだろう それは私のような哀れな人間を救ってくれた かつてはさまよっていたけれど、もう神様が見つけてくださった 神様の愛が見えなかったけれど、今は見える」という内容です。これ、今の自分のことなのかも? そう思いしみじみ。
 洗礼志願書のコピーを読み返すと、「人と分かり合える喜びを味わえるようになりたい」と書いてあります。不器用で自己表現が苦手な自分は、よく誤解もされますし、人と通じ合うのに人一倍時間がかかると思いますが、教会の皆さんと仲良くなれたなら、本当にうれしく思います。そして、一歩ずつでも神様との絆を深め、神様の愛を感じ、御心により自分を通じて他の人にも愛を分け与えられるようになりますように。
 時間をかけてじっくり向き合ってくださった晴佐久神父さま、ありがとうございました。いつも温かく接してくださった入門係の皆さん、代父のYさん、入門講座同期の皆さん、そして教会の皆さん、ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。
 多摩教会に導いてくださった、皆さんと出会わせてくださった、神に感謝!