心緩やかに生きる

松原 晴子(仮名)

 こわごわと緊張しながら、教会に足を踏み入れたのは昨年7月10日でした。
 最初に出会った方の優しさが、まるで魔法のように緊張感でいっぱいの私の背中をそっと押してくれてホッとしたのを忘れることができません。当時、独居老人の私は東日本大震災以後の不安感で身も心も砂漠のようにカラカラの干物状態になっていました。
 「いいのよ・・・。ご飯一緒に食べましょう」 
 その方のひと言は、もしかしたら人生のすべてを解決してしまうほどの特効薬! 教会の専売特許ですね。カラカラ干物の私はじんわりと潤い、この日以降の私はもう地震の不安感なんかそっちのけ、まるっきり忘れていました。
 教会での音楽と説教は私にはまるでコンサートそのもの。そしてご飯も私を強くひきつけました。
 独り住まいの私は、人と一緒にご飯を食べられることは、無上の喜び!! 
 それからは、すっかり教会に入り浸り!! 「神様」に最も遠い存在の私が、じわり、じわり、と何やら思考停止のまま引きつけられてその気になって・・・「洗礼」にゴールイン!! 
 実は今も、夢か幻かの状態です。

 この数カ月間学んだことは、「私は!」と意地を張らないで、肩の力を抜いて、周りの人や、環境をそのまま受け入れて緩やかに生きる。
 いままで「私は」とありもしない幻想の私を左右する「価値判断」にとらわれていました。教会のコミュニティーは、「私は」と息巻く「価値判断」から「事実判断」へと変えて理屈抜きで生きている事実を、味わうことでした。自分が生きている事実を事実として強く味わうことは、畏敬の心を持ち感謝の心を持つことにつながりました。
 心緩やかに生きる。こんなたやすいことにどうして背を向けて人生を醜く生きていたのか。自らのとんがった行動をしみじみ振り返る日々でした。まだまだですけどね。

 洗礼後は、あっけないほど自由に羽ばたいている?
 そして、人生の晩秋を赤く、情熱的に、意欲的に、の気持ちはふつふつと心の底で出番を持っています。このやる気満々の気持ちに「神様」が後ろ盾になってくれたら…。
 これからは、人生最終章に向けて、レッツゴーですね。まだまだ、人生何があるか分からない。これからが楽しみになりました。どうぞよろしく。