目は開かれた(受洗者記念文集)

樽井 (たけし)(仮名)

 2013年3月30日、神様から呼名(こめい)され、額に水を3度受けたとき、ある種次元の違う「気持ちのよさ」を感じていた。初めて味わう、「霊的な何か」である。カトリックの秘跡の凄さ、素晴らしさを実感した瞬間であった。私は真に生まれたのだ。

 2012年2月19日、よく晴れた日曜日、私は初めて多摩教会を訪れた。
 青い空の下に建つ白い教会。そのコントラストの美しさに小さな感動を覚えたことを記憶している。そして敷地に恐る恐る足を踏み入れると、満面の笑みを湛えた老信者の方が、「私の大切なお友達」と言って迎え入れてくださった。
 少しほっとして初めての入門講座に参加。その日はちょうど信徒総会の行われた日で信徒館は超満員。隅の方のテーブルで10数名がすし詰めになって入門講座は行われた。神父様は巡礼旅行から帰ってこられたばかりとのことであったが、お疲れの様子はみじんもなく、楽しい土産話とともにお土産を配られ、初めて参加した私にもお土産のメダイをくださった。
 その巡礼での出来事や洗礼志願式を控えた求道者の方々へ向けたお話を聞いているうちに、何とも言えず穏やかな異空間に身をゆだねているようで、それまで俗世間の沼地でもがいていた私は、何か一筋の光の縄を手向けられたような気がした。

 当時の私は、仕事のことと家族のことで毎日のように思い悩んでいた。
 転職を考えたこともあったが、大学受験を2年後に控えた子供のことを含めた今後の家族の生活を鑑みると、それもできない。また、そんな私を支えてくれるはずの家族は、(今思えば無理もないことでもあり、悪気もないのであるが)事態の重大さの理解が薄く、当事者意識も薄い。
 とうとう私は精神的に一人ぼっちとなってしまったという錯覚に陥り、「いったい自分は何のために苦しんでいるのか? 何のために生きているのか?」といった思いが日増しに強くなっていった。今まで大体のことは自分で解決してきたが、今回の事態は自己解決能力の限界を超えていたのだ。
 気が付くと、インターネットで近くのカトリック教会を検索して多摩教会を知り、電話をかけていた。
 「どうぞどうぞ。おいで下さい」。
 電話に出た方は、先述の、私を満面の笑みで迎えてくださった方であり、のちに代父をしていただいた方でもある。

 初めて多摩教会を訪れてから約1年、(()りつかれたように)入門講座とミサに通い続け、晴佐久神父様から語られる神様のみ言葉をシャワーのように浴びることで、自らに巣食うさまざまな負の思い(悪霊?)が洗い流されていき、希望が湧いてくるのを実感したのだった。
 また加えて、入門係の方々のきめ細やかな優しい心遣いや、入門講座を一緒に受講されていた信者の方々、求道者の方々、そして一般信者の方々との触れ合いの中で、ささくれ立った気持ちが滑らかに(なら)されていき、
 「もうだいじょうぶ。ご安心ください。神様はあなたを愛しています」、
 多摩教会のホームページのトップにある言葉が身体中の細胞に染み入ってきた。
 「だから生きているんだ」。
 「苦しみや試練は天の国へ入るためのプロセスなんだ」。
 いつの間にか、多摩教会を訪れるきっかけとなったことの解は出ていたのだ。

 それからというもの、「明日を思い煩うな」、「互いに愛し合いなさい」、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」といった聖書のみ言葉が生きる糧となっていき、自分が思い悩んでいたことのほとんどすべてを、肯定的に受け入れることができるようになっていったのである。
 「永らく眠っていた私を開眼させてくれた多摩教会で、ずっと目を覚ましていたい。父と子と聖霊の交わりの中にずっといたい」。そう思った私は洗礼を決意し、晴佐久神父様に許可を願い出た。
 「あなたを多摩教会の仲間として迎え入れます!」
 力強く言ってくださった神父様のお言葉によって、今までの人生で一番熱い涙が頬を濡らした。

 ここまで導いてくださった晴佐久神父様、代父様、そして入門係の方々をはじめとする多摩教会の皆様、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。
 これからは、「福音を語る者」として一生懸命頑張ってまいりたいと思います。どうか末永くご指導くださいますよう、宜しくお願いいたします。
 神に感謝✝