連載コラム:「渡辺治神父様のこと」

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連載コラム「スローガンの実現に向かって」第90回
渡辺治神父様のこと

南大沢地区 加藤 泰彦

 8月12日(日)のミサの説教で、「渡辺治神父様が1963年7月30日に長野県篠ノ井の千曲川で、引率していた子どもがおぼれそうになったのを助けようとして亡くなられた」というお話が出ました。この名前を聞いて、半世紀以上前の記憶が突然蘇ってきました。

 1963(昭和38)年7月31日。その日は暑い日で、夏休みということもあり、我が家の隣にあった伯父の家に泊まった朝でした。まどろみの中で大人たちがひそひそ話しをしているのが聞こえました。「どう伝えたらいいか・・・、誰が伝えるか・・・」。いきなり起き上がった私に、伯母が渡辺神父様が亡くなられたことを伝えたのです。あまりにも突然のことに涙が止まりませんでした。親族を除いて、人の死にこれだけの涙を流した記憶がありません。当時、私は小学校5年生、11歳でした。
 伯父の長女が修道会に入ったことをきっかけに、私が4歳の幼稚園児のときに、一家はそろって関口教会で洗礼を受けました。当時の関口教会仮聖堂は、現在のカテドラル構内の教会事務所の辺りに木造2階の建物がありました。聖堂は2階にあり、1階は私が通っていた聖園(みその)幼稚園でした。
 当時はまだ第2バチカン公会議の直前で、子どもたちは土曜学校に通い、白い立派な顎鬚の青山伝道師(青山兼徳、和美両神父のお父上)から話を聞きました。子ども心に怖い話をいつも聞かされていたように思います。
 そんな教会生活は小学校3年のときに赴任された、新司祭渡辺治神父の出現によって、がらりと変わりました。実によく子どもたちと遊ぶ神父様でした。当時の関口教会には広いグラウンド(現在の大聖堂が立つ場所)があり、そこで野球や、鬼ごっこ、かくれんぼ、司祭館で卓球など、子どもが遊び疲れるまで付き合ってくれました。中でも、神父様の自家用車である黒いオートバイの後部座席に乗せてもらって、教会内を走り回る楽しさは格別でした。
 男の子たちには夏休みに侍者練成会がありました。当時ミサは司式司祭と侍者のラテン語での応答で進みます。侍者はミサに不可欠の存在で、そのための男子の教育は厳しいものでした。朝6時半のミサにあずかり、朝食をとり、いざ勉強です。これが2週間ほどありました。
 その年(1963年)の夏は、渡辺神父様のご実家で合宿することになりました。私も行きたかったのですが、たまたま小学校の林間学校と日程の調整がつかず諦めました。事故はそこで起こりました。
 子どもの頃から千曲川で泳いで遊んでおられた神父様は、泳ぎに自信がありました。目の前を流れる千曲川で遊ぶ子ども達を実家の縁側から眺められていたそうです。その時一人が足をとられて流されました。神父さまは着衣のまま、すぐさま飛び込みました。無事助け上げたあと川の中に消えました。皆は、神父様が皆を驚かそうとして隠れたんだと思ったそうです。その時心臓はすでに止まっていました。
 葬儀のことはほとんど記憶がありません。ただ暑い日でちょうど建設最中だった聖マリア大聖堂のステンレスの外壁の鈍い光が、仮聖堂の窓越しに見えたことだけ覚えています。
 「君は神父になれ」。事あるごとに神父様に言われました。わずか3年の出会いでしたが私にとっては忘れ得ない方となりました。
 暑い夏の朝、あの思い出がまたやってきました。