巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天国の応接室

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 この巻頭言のタイトルも、「天国の受付」「天国の入門」と来て、今度は「天国の応接室」ではいささかくどいような気もしないではないが、そもそも教会とは天国の出張所みたいなものなのだから、当たり前のこととして受け止めていただきたい。
 出張所であれなんであれ、およそ人に接する組織の建物には、必ず応接室というものがある。大抵は入り口付近の一等地にあって、どうぞこちらへと中へ通されると、真ん中に革張りの応接セットがあり、壁にはありがたそうな絵がかかっていて、眺めていると受付嬢がお茶を持ってくる。それは、多くの場合は形式的な応対であるとは言え、人間関係の基本として欠くことのできない礼儀であり、あなたを大切に思っていますよという愛情表現でもある。

 多摩教会に来て困ったのは、この応接室がないことである。
 司祭を訪ねてくる人は多い。教会は初めてという人が話を聞きたいと現れることもあれば、古い信者さんが改まって相談に来ることもある。掲示板を見て立ち寄ったという人もいれば、遠くから一度来てみたかったと訪ねてくる人もいる。若い二人が輝く顔で結婚の挨拶に来たり、年配の方が深刻な顔で家族の病気のことで来たり、雑誌の編集者が怒った顔で原稿を取りに来たり、教会委員長が優しい顔で司祭を励ましに来たり。
 今は仕方なく、落ち着かないホールの片隅で応対しているが、中には人に聞かれたくないことで相談に来る人もいるし、それこそ心の病を抱えて必死に教会へ来た人で、だれにも会いたくないという人もめずらしくない。洗礼前の面接では魂の会話が交わされるし、ご遺族が故人の話で涙をこぼすこともある。福音を語り、共に祈り、そのままそこでゆるしの秘蹟を授けることもある。
 やはり独立したおもてなしの部屋が必要だということで、司牧評議会で二ヶ月にわたって話し合い、このたび承認を得て応接室を設けることになった。具体的には、現在受け付け室として使っている部屋を応接室として用い、受付はホールの一隅に新たに設け、前庭側に受付の窓を開けるというプランである。現在の受付は外から分かりにくく中からも外が見えないので、新設すれば分かりやすく見えやすくなり、教会の顔として外部に向って大きな役割を果たすことになるという意味では、一石二鳥でもある。
 そのぶんホールが狭くならないよう同じ面積ぶんのホールの物入れを取り外すことや、合わせていくつかの扉を使いやすく付け直すなどの修理を含め、二百九十万円で発注した。工務店と何度も交渉した末の破格のお願いなので、みなさんのご了承をいただきたい。そして、人々を大いに受付け、大いに応接していただきたい。

確かに教会へは司祭を訪ねてくる人が多いが、その真の動機は救われたいという思いなのだから、最終的にはキリストに会い、神の愛に出会えればいいのである。その意味では、神との出会いを取り次ぐ使命を持つキリスト者は皆、本来は応接される側と言うよりは応接する側であるはずだ。それは、すべての人の心の叫びに応じ、すべての人の苦しみに接するために命を捧げた、「イエス・キリストの応接」に連なることなのである。
 生きる元気さえなくした人がようやく教会にたどり着き、恐る恐る構内に足を踏み入れると、受付の窓が開いていて、中から笑顔で挨拶される。どうぞ、どうぞと招き入れられ、応接室に通されると、そこにはくつろげる椅子があり、明るい花が飾ってある。すぐにお茶とお菓子が出て、ほっとした気持ちになる。一口飲むと、とてもおいしい。ああ、来てよかったと思っているところへ、扉が開き、イエス様が入って来て言う。「ようこそいらっしゃいました。安心してください、もうだいじょうぶですよ。」
 その人は、その日を、その部屋を、飾ってあった花の色に至るまで、一生忘れない。