巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

赤ちゃんは家族を元気にする

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 多摩教会に赴任して、ちょうど一年がたちました。この一年、のどかな多摩の地で穏やかな信者さんたちに囲まれて、のびのびとした日々を過ごすことができました。みなさんの協力と忍耐に、心から感謝しています。特に先日の聖週間にあたっては多くの方に様々な奉仕をしていただきました。今までこんなにスムーズにこの時期を終えたことはなく、多摩教会には何か不思議な底力があるんだなと改めて気付き始めているところです。
 なかでも、洗礼式のあった復活徹夜祭は大変美しく感動的なミサとなりました。受洗者はもちろん、教会全体にとって忘れがたい体験となったことでしょう。こうして一年間待ちに待った洗礼式を無事終えることができて、今は少しほっとした気持ちと、さあ、来年の復活祭に向けて出発だという、ワクワクする気持ちがあります。

 一年間待ちに待ったというのは正直な気持ちです。改めて言う必要もないでしょうが、私は洗礼式が大好きです。どこの教会に赴任しても、まずは「洗礼と聖体を中心とした教会共同体づくり」を心がけてきました。もちろんほかにも大切なことはたくさんありますし当然大切にしていますが、洗礼と聖体を中心にすることが何よりもその教会を元気にするという事実を、私はずっと目の当りにしてきました。大勢の受洗者とその感動する姿に触れて教会全体が自信を持ち、希望を取り戻し、新しい力で再出発する姿を、これまで毎年見続けてきたのです。多摩教会の素晴らしい仲間たちにもそのような体験をしてほしいと、一年間待ちに待っていました。
 洗礼が大切であることは、自分も洗礼を受けた者としてだれでも分かってはいることです。けれども、いったん教会共同体ができあがってしまうと、どうしても日常の活動や典礼に追われ、いつもの仲間と慣れ親しんだ関係を保つことに心を奪われていきます。信者の一致と交流自体は悪いことではありませんが、それだけではただの自己満足になってしまいます。言うまでもなく教会は秘蹟であり、「神の愛の目に見えるしるし」です。それは誰にとってのしるしであるかと言えば、常に新たな仲間へのしるしであるはずです。塔を立てて頂に十字架を据えるのは信者のためではなく、信者ではない人を招くためなのです。そのような本質から離れると、どうしても教会は内向きになり、元気がなくなっていきます。
 多摩教会は元気な教会ではありますし信者も増え続けてきましたが、それは実は転入者に支えられてきたことも事実です。ニュータウンという土地柄、黙っていても転入者が多く、教会はそれによって活性化されてきました。しかし稲城地区の開発も終わった現在、もはやこれ以上転居による転入者が増える見込みはありません。むしろ転入者が多かったせいで、受洗者のことを忘れてしまっていたとしたら、今後一気に元気がなくなってしまうことも、十分考えられます。
 家族が喜び、一致し、元気になる一番のチャンスは赤ちゃんの誕生です。お母さんはすべての苦労が報われてもう一人ほしいと思い始め、お父さんはさあこれからがんばって働くぞと決心します。お兄さんお姉さんたちは様々なお手伝いを喜んでし始めるし、おじいちゃんおばあちゃんも、新しい命に心躍らせるのではないでしょうか。受洗者の誕生は、なによりも教会を元気にするのです。

 このたびの34名の受洗者は、間違いなくこれからの多摩教会を支えて元気にしていくことでしょう。また、洗礼式で心洗われた先輩信者たちも、改めて多摩教会を愛して活性化していくことでしょう。
 来年の復活祭に向けて、新たなスタートです。今はまだ福音の喜びを知らない大勢の人が、多摩教会と出会いたいと待ち望んでいるのです。来年2011年の復活徹夜祭は4月23日です。その夜、また、復活のろうそくに顔を輝かせた大勢の新受洗者が並ぶでしょう。「名前を呼ばれた洗礼志願者は前に出てください」。その日、どんなお名前が呼ばれるのでしょうか。