巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

教会縁日へどうぞおいでください

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 古今の文化文明、東西の民族宗教でお祭りをもたないという集団はひとつもありません。わが家の誕生パーティーからワールドカップのような大イベントに至るまで、人類はいつでもどこでもお祭りを繰り返してきましたし、これからもこの世からお祭りがなくなることはないでしょう。なんなら「人間とはお祭りをする動物である」と定義付けてもいいかもしれません。
 祭りは「奉り」であり「祀り」ですから、その本質は神と人の交わりの機会です。普段は神を忘れがちな人間たちが、ひとときでも非日常の祝祭空間に身をおき、みんなで心をひとつにして祭礼を行い祝宴に興じることで、豊穣なる神の世界を体験し、神聖なる神とのつながりを取り戻すのが祭りなのです。
 この場合、日常の方が中心で、その日常を活性化するためにたまにはお祭りでもしようよ、というのが普通の感覚なのでしょうが、神との交わりということで言うならば実は非日常の方が中心なのですから、その非日常を本当の意味で大切にするためにこそ、日常の営みがあるというべきでしょう。まさに、人間はお祭りをするために生まれてくるのです。

 当然のことですが、キリスト教にも祭りがあります。いうまでもなくその中心はミサ聖祭であり、イエスの死と復活にその起源を持つ、キリスト教の究極の祭りです。しかし、ミサの聖性とその神秘は信仰によって受け止められるものである以上、一般の人になじみにくいものであることは事実です。ミサは本来的にすべての人のための宴でありすべての人を救う祭儀ではあるのですが、なじみにくいものである以上、そこへお招きするためには何らかの親しみやすい準備段階が必要でしょう。ちょうど神社のお祭りでも、奥の神殿で祝詞があげられている時に手前の境内では縁日が繰り広げられているように。
 司祭はその名のとおり祭りを司る者ですから、単にミサを司式するだけでなく、地域社会の人々をミサという祭礼へ招く奉仕をしています。当然のごとくこの「境内の縁日」に関心深く、力を注ぐことになります。それが、一般の人々を神の御許へとお招きする何よりの好機となると信じて。
 たとえば先日8月8日に開催したバイオリンコンサートなどは、だれもが「境内」に入ってこられるお祭りとして企画しました。パリオペラ座の高名なバイオリニストが身近な聖堂で天国のメロディーを奏でるということで、日ごろは敷居の高い宗教施設に大勢の人が「初めまして」と集ってくる様子に、心高鳴りました。
 そのとき、次は8月13日夕にだれでも参加できる納涼祭をしますというチラシを配ったら、そちらにも何人もの方が来てくれました。13日夜はもう聖コルベの日ですから、まず聖堂でコルベ神父の話をして、その後信徒館で乾杯をし、そうめんを囲んで楽しくおしゃべりしたのですが、そのとき複数の方が「この教会は居心地がいい」と言ってくれたのです。「居心地がいい」なんて最高のほめ言葉じゃないですか。そんな風に思ってもらえるなら、それこそ「お祭り効果」というべきでしょう。そこから「魂の居心地がいい」ミサ聖祭まで、あと一歩です。

 境内の縁日と言うなら、教会の場合は何といってもバザーです。地域の住民にとっても、ちょっとお得で何か楽しいという印象があるバザーは、すでにいわば「教会縁日」として認知されているわけですし、これを活用しない手はありません。ちょうど教会建設の借金も返済し終えたことですし、ここらでバザーの位置づけを明確にしようと、先日の司牧評議会でも話し合われ、今年のバザーは「地域に開かれたバザー」にしようということになりました。合わせてバザー実行委員会も発足することになりましたので、みんなで協力して「どうぞ、地域のみなさんおいでください」という、おもてなしの心こもったバザーにいたしましょう。
 ぜひ、それぞれの参加グループが、通りすがりにふらりと訪れてくれる人のことも考えた企画として、具体的に工夫してほしいと思います。現に入門係グループは、入り口付近に案内ブースを設けて、フレンドリーに声をかけたり聖堂のご案内をしたりするというような企画を考えています。おおまかな内容は例年通りだとしても、説明をていねいにするとか、応対を親切にするとか、ともかく歓待の精神あふれるバザーであってほしいのです。
 そんな教会縁日で多摩教会に親しみをもってくれた人が、それじゃあ今度、ミサというお祭りも覗いてみようかなと思ってくれたりしたら、どんなに素敵なことでしょうか。やがてその人は毎週来るようになり、ついには教会家族の一員となり、翌年のバザーでは案内係にもなって、「さあ、どうぞお入りください。実はわたしも去年のバザーで初めてこの教会を訪れて、親切にしてもらったんですよ」と言うことになるのですから。