2012年 4月号 No.464

2012年 4月号 No.464

発行 : 2012年4月22日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


さあその日をめざしてがんばろう

主任司祭 晴佐久 昌英神父


  もう十年も前に生まれたぼく。
  学校にはりきって入学したぼく。
  そんなぼくは、今日もいろいろなことでしかられている。
  そのたびに決心しては、次にまたしかられる。
  こんなことではだめだ。
  よしこんどこそやるぞ。
  だめかもしれないけれどやってみよう。
  そしていつかできるようになったら
  先生やおとうさん、おかあさんにむねをはってやろう。
  さあその日をめざしてがんばろう。

 母が亡くなる数年前だったと思います。ある日、母が「これ、ずっと仕舞ってあったんだけど、返すね」と言って、黄ばんだ一枚の紙を渡してくれました。そこには、鉛筆書きのていねいな字で10行ほどの詩が書いてあり、作者名は晴佐久昌英とありました。最初の一行から類推するに10歳の時の作品のようですが、本人は全く覚えていなかったので、突然昔の自分と出会ったような、何とも不思議な気持ちになりました。
 上掲の詩が、それです。内容からして、たぶん国語の授業で「心で思っていることを素直に書きましょう」などと言われて書いたものではないでしょうか。まさに、毎日叱られて生きていたあの頃の正直な気持ちが書かれていて、いじらしいというか、切ないというか、思わず「がんばれ、自分!」と言いたくなるような詩です。たぶん、このけなげな詩を読んだ母も同じように思ったであろうことは、40年近くこの詩を捨てずに持ち続けていたことからもわかります。おかげさまで、詩人晴佐久昌英の処女作は、ちゃんとこの世に残された、というわけです。よく読むと体言止めや決意の独白、二行ずつの脚韻などのレトリックが施されてあり、独特のリズム感もあってなかなかの技巧派です。
 今はこの詩は額に入れて、トイレに飾ってあります。毎日座るたびにこの詩を読んでは「だいじょうぶだ、晴佐久君、君はがんばってるよ。だれも君をしかったりしない、もうむねをはっていいんだよ!」と自らに言い聞かせるのですが、人の思いというものはそう簡単に変わるものではありません。結局は、10歳の思いからちっとも変わらずに、「でもまあ、そうは言っても、こんなんじゃまだまだだよね・・・もう少しがんばらなくっちゃ」という気になるのです。

 このたび、晴佐久昌英の第2詩集「天国の窓」が発行されました。帯には「18刷、4万2千部のベストセラー『だいじょうぶだよ』から10年、待望の第2詩集」とあります。確かに詩集で4万部というのは立派なベストセラーでしょうし、ちゃんと第2詩集も発行されるなんて、詩人晴佐久君、できるようになったじゃないですか。むねをはってやろうじゃないですか。
 この詩集は、言うなれば「写真詩集」とでも言うべきもので、見開きの片方のページに菅井日人氏の美しい写真、もう片方に詩を載せました。よく、「これ、写真が先なの? 詩が先なの?」と聞かれますが、思わずそう聞きたくなるほどに写真と詩が寄り添って一つの世界をつくりだしているところに、他とはちょっと違う面白さがあります。実際には、写真からインスピレーションを得て詩を書きました。それを並べると、写真と詩、つまり光とことばが絶妙に響きあって、心に深くしみこむ詩集になりました。
 「だいじょうぶだよ」のときもそうでしたが、いつも詩を書くときには、特定のだれかを思い浮かべながら書きます。特に、今つらい気持ちでいる人や、困難の中にいる人のために、励ましとなり希望となるように書いているので、全体に癒しと慰めの香り溢れる詩集になりました。ぜひ、闇の中にいる人、救いを求めている人にプレゼントしてください。ひとつの詩を生み、育て、納得いくものに実らせるためには、大変な苦労と工夫、強い信念と忍耐が必要ですが、苦しんでいる人の気持ちがほんの少しでも和らいでくれるなら、がんばった甲斐があるというものです。
 しかし、ここでいい気になってはいけません。まだまだむねをはったりしてはいけません。こんなことではだめだ。よしこんどこそやるぞ。だめかもしれないけれどやってみよう。さあその日をめざしてがんばろう(涙)。

【 投稿記事 】


祈り

福井 英夫

 皆さまは毎日どんなお祈りをしていますか?
 私は、朝起床時に「今日もいち日何事もなく過ごす事が出来ますように」。朝食と夕食前、夫婦で祈りを唱えてから食事に入ります。寝る前は今日いち日の反省感謝のお祈りをしています。

【 朝の祈り 】

新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたしを照らし、導いてください。

いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように。
物事がうまくいかない時も、ほほえみを忘れず、いつも物事の明るい面を見、
最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください。

自分のしたいことばかりではなく、あなたの望まれることを行い、
まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見い出させてください。

アーメン。


 2000年9月。“長崎・平戸・生月巡礼団”に参加した折に団長のカトリック瀬教会主任司祭(当時)のケンズパリ神父さまから、この朝の祈り、夕べの祈りカードをプレゼントされて、巡礼中、朝食前と夕食前にはツアー参加者全員で唱えてから食事に入りました。私達夫婦は毎日朝食前と夕食前には、この祈りを唱えてから食事のお恵みを頂きます。

【 夕の祈り 】

一日の働きを終えたわたしに、やすらかな憩いの時を与えてくださる神よ、
あなたに祈り、感謝します。

きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちにたくさんのお恵みをお与えください。

わたしの思い、ことば、おこない、おこたりによって、あなたを悲しませたことがあれば、
どうかおゆるしください。

明日はもっとよく生きることができますように。

悲しみや苦しみの中にある人たちを助けてください。
わたしが幸福の中にあっても、困っている人たちのことを忘れることがありませんように。

アーメン。


今日いち日ありがとうございました。神様に感謝”

いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

(テサロニケの信徒への手紙)
                   

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

神はなぜ、この世の災いや苦しみをお除きになりませんか

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 13 ★天地万物の主宰とはどういうことですか。
 天地万物の主宰とは、神が天地万物をおつくりになったのち、常にこれを保ち、またつかさどることです。
 キリストがお教えになったように、神は特に人間に対して父の心を持ち、霊魂とからだとにかかわるすべてのことを、特別にお計らいになります。これを人間に対する神の「摂理」と言います。すべて世の中のできごとは、盲目的な運命によらず、神の摂理によって導かれています。

 14 ★神は人のことを特別にお計らいになるのに、なぜ、この世の災いや苦しみをお除きになりませんか。
 神がこの世の災いや苦しみをお除きにならないわけは、神が、それらの災いや苦しみから善を生ぜしめ、この世の苦難をとおして人をのちの世の幸福にお導きになるからです。特にイエズス・キリストは、その教えと行いとをもって苦しみの意味を教えられました。

 これは、わたしが子どもの時に教会学校で配られた「カトリック要理」の一節です。この本は、カトリック中央協議会が今からちょうど半世紀前の1960年に出版したもので、カトリックの基本的な教えが問答形式によってまとめられています。当時はカトリックの洗礼を受けるためにこの「カトリック要理」を一年以上かけて学ばなければなりませんでしたし、教会学校の子どもたちも暗記させられたりしたものです。難しい教会用語が頻出して親しみにくく、教条主義的な形式にも限界があってその後あまり使われなくなりましたが、中身はもちろん正しい教えであり、信仰の原点を確かめるために読み直す価値は充分にあります。
 特に、このたびの大震災のようにまさに「想像を絶する」出来事に際して「言葉を失う」体験をすると、恐れや虚無感にとらわれて、絶句したままの思考停止状態に陥ったり、立ち尽くしたままの信仰停止状態に陥ったりしがちです。こんなときこそ、信仰の原点を的確に教え、神の愛を明確に語る救いのことばが必要ですから、聖書はもちろんですがカトリック要理の歯切れのいい教えにも励まされたらいいでしょう。

 冒頭引用したのは、第二課「創造と主宰」の13、14項です。13項では神の計らいについて、14項では災いと苦しみの意味について説明しています。神は天地万物のすべてをつかさどっておられるというのですから、宇宙の法則も地球の仕組みも、生命の神秘も進化の歴史もすべてということです。とりわけ、人間に対してはまことの親としての愛をもって特別にお計らいになっておられ、それを「神の摂理」と呼ぶと強調しています。
 最近あまりこの「摂理」という言葉が使われなくなりましたが、いまこそもう一度摂理への信頼を深め、摂理へのセンスを養う時ではないでしょうか。「特にイエズス・キリストは、その教えと行いとをもって苦しみの意味を教えられました」とありますが、摂理を完全に受け入れたイエスはもはや、摂理そのものです。イエスは殺される前夜、天の父に祈りました。「わたしの願いではなく、あなたの御心のままに行ってください」。イエスを信じるということは、摂理を信じるということなのです。わたしたちキリスト者は、善である神の愛を受け入れて、すべての出来事のうちに神の摂理が働いていることを信じます。地震も津波も「盲目的な運命」ではなく神の摂理のうちにありますし、人の誕生も死も神の摂理のうちにあるということです。

 もちろん、地震予知をしたり津波防御をしたり、誕生を願ったり死を避けたりするのは人間として当然のことであって、そういうことをしても無駄だと言っているのではありません。ただ、そういうことをした上でなお起こった出来事に関して、そこに神の摂理を見出して受け入れることを神は求めておられるということです。
 大規模な災害や親しい人の死を前にしたとき、それを摂理と受け止めるのは難しいことです。しかし、人間はあくまでも「神の愛を受けるために神に造られた存在」である以上、どれほど理解しがたい出来事であっても、最終的にはそこに神の愛を見出し、それがすべての終わりではなく、むしろ何かとてつもなくすばらしいことの始まりであると信じなくてはなりません。摂理は、理解するものではありません。摂理は信じるものなのです。その信仰をこそ神は求めておられるし、その信仰に向けてわたしたちを成長させようと計らっておられるのです。
 摂理のうちに天に召された人たちが、尊い犠牲を捧げた聖なる人たちとして、天の国でどれほどすばらしい栄光に与っているかを、まだだれも知りません。知らないけれど、信じます。摂理のうちに生き残った人たちが、苦難によって成長し、いつの日か天の国でどれほどすばらしい栄光に与るかを、まだだれも知りません。知らないけれど、信じます。
 カトリック要理では、14項に続いて、聖書と教父の言葉が引用されています。
「苦しむ人たちは幸いである。かれらは慰めを受けるであろう」(マタイ5・4)
「神は、神を愛する人々、すなわちご計画に従って召し出された人々とともに働いて、万事かれらのために益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている」(ローマ8・28)
「神は、どんな悪も行われえないようにするよりも、むしろ悪からも善を生ぜしめるようにするほうがよいと考えられたのである」(聖アウグスチヌス)