2012年 1月号 No.461

発行 : 2012年1月21日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


おやつの会

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 新年あけましておめでとうございます。
2012年はまさに「新しい創造」(仙台教区の新生キャッチフレーズ)の年。過ぎし年の困難や試練をむしろ逆手にとって格好の機会とし、悲しみや絶望をみんなで喜びや希望に変えてしまおうではありませんか。教会という恵みの場には、そうするだけの経験と知恵、人材と条件、なによりも愛と信仰があるのですから、あと必要なのは「よし、やろう。きっと、うまくいく」という、明るいひらめきと素朴な決心だけなのです。

 新年早々、また被災地を訪問して来ました。被災地訪問も9回目。今回は釜石(4回目)と、大船渡(2回目)。いつも駆け足ではありますが、それでもいい出会いがたくさんあって、とても励まされます。
 釜石では2か所の仮設住宅を訪問しました。そのうちの一つでは併設された「談話室」を訪問したのですが、集まった方々が本当に明るい方たちで、元気いっぱいのおしゃべりに圧倒されました。談話室というのは、仮設住宅の人たちが孤立しないように設けられたコミュニティースペースで、12畳ほどの談話スペースにキッチンやトイレがついています。今回はそこでボランティアの人たちが「すいとん」を作って仮設の方々をお招きし、あわせて20人ほどで一緒にいただきました。このすいとんがとってもおいしかったこともあり、話が弾んで、笑い声のあふれる楽しい集いでした。
 このようなスペースは、大変貴重です。現に、そこに集まった人たちは一見古くからの知り合いのように見えましたが、聞けば実際には3か月前にこの仮設住宅が開設されたときに入居した人たちだそうで、それまではお互い全く見知らぬ仲だったのです。そんな住人達が互いに知り合って信頼関係を築いていくためには、いわゆる「サロン」のようなスペースが必要ですし、そこでのイベントがとても効果的です。つらい過去や不安な未来を共感しながら語り合い、互いに励ましあってひとときを過ごす仲間は、人が生きていく上では欠かすことのできないものだからです。

 今月、大船渡にカリタスジャパンの支援センターが開所しました。次第にボランティアたちも引き上げていくこの時期に、カトリック教会が新たに支援センターを立ち上げるのはとても前向きなメッセージとして現地にも受け入れられていて、まさに教会が「新しい創造」に協力している姿を示していると言えるでしょう。
 このセンターはボランティアたちの宿泊施設であると同時に、広く地元の人に開放して「サロン」として活用してもらうよう、談話室的な機能も持っています。お訪ねしたのは開所式の3日後でしたが、室内は地元の「ケセン杉」を多用したログハウス風の内装で、木材のいい香りがして大変明るく居心地がよく、これなら多くの人の心のよりどころとなるだろうなと、うれしい気持ちになりました。実は、ベース長の池田雄一神父は私の神学生時代の恩師で、うれしい再会になりました。神父様に開所のお祝いを申し上げ、多摩教会での被災地献金12月分をお渡しすると大変喜んでくださいました。まさに、支援センターは出会いの場でもあるのです。

 このように、被災地での「サロン」の役割は、大変重要です。それはまさしく、教会の役割が大変重要であるのと同じことです。教会こそ、現代社会のサロンであり、コミュニティースペースであり、談話室であるからです。教会こそ、つらい現実の中で人と人を出会わせ、互いに福音をわかちあい、神の家族として一つに結ばれる救いの場であるからです。魂の世界では東京もまた被災地だということもできますし、今の時代は、どこの地域でも「サロン」としての教会の役割に期待が集まっているのではないでしょうか。
 多摩教会で先月始まった「おやつの会」は、ささやかながら、そのようなサロンの機能を持った集いです。これは毎週木曜日、午後3時のおやつの時間にお茶とおやつが用意してあって、だれでも来ておしゃべりすることのできる談話室です。すでに信者はもちろん、求道者や近所の方も来ていますし、たいていは晴佐久神父も「そろそろ、おやつですねー」と現れます。
 この集いの基本的な考え方は「みんな家族なんだから、おやつの時間くらいは一緒に過ごしましょう」という素朴なものです。実際には、話が弾んで、日が落ちてもまだおやつが続いていることもしばしばですが。無料ですので、お気軽にどうぞ。差し入れも歓迎です。一緒におやつを食べながら出会いと会話を楽しんで、この困難な時代に、新しい創造にチャレンジしていこうではありませんか。いきなりミサや入門講座ではちょっと敷居が高いという方にも、ぜひお勧めください。
 小さな集まりですが、教会のサロンは大きな可能性を秘めています。その小さなサロンが、天国という究極のサロンの入り口なのですから。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第19回

≪私の人生における、たびたびのオアシス≫

海野 滋子

  10才の時、父の急死、母の病気で、私たち兄弟姉妹、4人はそれぞれ親戚にあずけられ、みじめな生活を余儀なくされたのである。しかし、神は見捨てられず、熱心な カトリック信者の伯母のお陰で私は受洗、関口教会に通った。指導司祭はパリから帰られたばかりの大越神父様。満開の桜の花散る教会の庭で「どう、元 気?」と声をかけてくださるそのお姿は、当時不遇であった私の何よりのオアシス。それも甘く美味かった。
 太平洋戦争、それは意に反するものであったが、如何ともすることは出来ず、結婚間もなく夫は、「兵役のがれのため」南方ジヤワヘ転任し、私を置いて行ってしまった。
 物資不足のなか、姑との我慢、我慢の慣れぬ生活。そのなかを無理して日曜日のミサにはいった。唯一のオアシスであった。それは元気を与えてくれた。
 敗戦後5年間、夫は抑留生活にも耐え帰還。…神に感謝。留守中の家は2度戦災に遭い、食べるに苦労する有様であったが、小さなバラックを建て、戦後の生活が始まった。有難いことに、次次と子供に恵まれた。
 小さいのをおんぶし、1人の手を引き、5才のお姉ちゃんは前を歩かせて、平河町の家から麹町教会に通った。ホイベル神父様の時代で、3人とも洗礼は受けている。小さいの3人連れていますと、1人は必ず泣きだし、困りますと神父様にと申しあげると、「子供は泣くもの。少しも気になりません」と言われた。 そのお言葉は有難く、嬉しかった。人生で一番ほっとしたオアシスであった。身も心も安堵することが出来た。
 それから20年、姑をホイベル神父様のお陰で、天国に見送ることが出来た。これからは私たち夫婦の世界と喜んだ矢先、夫は「胃癌」を病み、最後のご聖体を涙と共に寺西神父様から受けて、帰らぬ人となってしまった。念願の新築の家も、広い庭も 楽しむことなく…。私一人になってしまった。
  3人の子供は、独立精神旺盛にてそれぞれ恋愛結婚をし、家を建て、別居していった。「お母様はどうなさる?」と心配しながらも…。 私の心は決まっていた。私も独立すると!将来の生活がすばらしいオアシスのほとりでありますようにと願いつつ。
 幸い、気に入ったケアー・マンションに入居出来た。多摩教会に近いことが何より嬉しく、毎日曜日通った。当時はまだマンションの一室でミサが行われており、早く聖堂を建てるべく、皆努力しているころであった。土地が決まり、仮聖堂でミサがあげられた時は嬉しかった。それからの神父様初め、教会委員の方の努力は如何ばかりだったでしょうか。
 次々と熱心な神父に恵まれ、今度は晴佐久神父という方が見えると寺西神父様に申しあげたところ、「星の王子さま」のような方だよと言われ、私の期待するところは大きかった。次々と計画をたてられ、実行されている。著作本もC・Dも多く作られた。眼・耳・足の不自由な私にとって何よりのオアシスである。
 整備された聖堂を見上げ、永年付き合った友人に見守られ、92歳の私は神の許に召されるその日を待つ。
 「生命ある限り喜びと慈しみはいつも我を追う。主の家に帰り永遠にそこに滞るであろう」(詩篇23)

【 投稿記事 】


聖マキシミリアノ・M・コルベと多摩教会はつながっていた

神田 高志

  聖母の騎士文庫、小崎登明著「ながさきのコルベ神父」61〜71頁にかけてヤマキ先生のことが詳しく書かれております。コルベ神父の伝記、記録を読むとき、必ず登場して来るのが長崎在住のこのヤマキ牧師で、数ヶ国語を駆使して、翻訳・編集・通訳に協力したという記述があります。このヤマキ先生とは、私たちの小教区の創設に奔走した多摩教会のオリジナル・メンバーの一人であった八巻信生氏(故人)のお父様なのです。
 コルベ神父が、ゼノ修道士たちと共に昭和5年長崎に上陸し、聖母の騎士誌を出版することになったのですが、一番困られたのはその原稿を日本語に翻訳することでした。
 そこでメソジスト派教会牧師であり、中学校の先生であった八巻先生が紹介され、イタリア語の原稿を日本語に翻訳され、大変喜ばれたとその状況が書かれております。
 このことは「多摩教会ニューズ」No.204にも、その子息である八巻信生氏自身が書かれております。信生氏は「この牧師が私の父であり、その交流はコルベ師の死に至るまで続いたようである」と書いておられます。さらに、お母様についても次のように書いてあります。「自分が4・5才の頃、母が”ひょうそう”に罹り、最悪の場合指の切断もと宣告された。その治療には当時の金で10円(現在の50万円位か)はかかり、もちろんそんなお金はあろうはずもない。母も覚悟したようだ。まさにその折も折、航空便で小切手が届いた。10円だった。当時ポーランドに一時帰国されていたコルベ神父様からのものだった」
 その小切手には、「これは長崎時代の貴方の協力に対するマリア様からのプレゼントです。今必要とするものに使ってください」というメッセージが添えられていた。「おかげで指は切らずに済んだ、と母は死ぬまで繰り返しながら、涙ぐんでいた」
 これに関連して、小生(神田)がマンション時代の聖堂から帰宅する折、たまたま新大栗橋バス停で信生氏と一緒になることがあった。いつも苦虫をかみつぶしたような顔つきの彼が、にこにこしながら、「私の記憶では、母は教皇庁のコルベ神父列福調査のための証人として呼ばれたことがある」と語られた言葉を思い出します。
 お父様は、昭和54年85才で天に召されたと上記の小崎氏の本に書いてあります。同年10月の「多摩教会ニューズ」No.79に「八巻信生氏のご実父頴男氏が9月29日帰天されました」という訃報が書かれております。
 ついでながら、この79号の巻頭言に初代の主任司祭寺西神父様が、10月6日に帰天された晴佐久神父様のお父様への追悼詩「晴佐久さん、おぼえていますか」を書かれておられます。
 信生氏のことに戻りますが、「教会ニューズ」No.11号(1973年8月号)には「生と死、原爆より」という記事を書いておられます。その要旨は次の通りです。
 終戦直前、長崎に疎開していた自分たちのところへ、群馬へ再疎開するために、父が迎えに来た。その時自分の健康状態は良くなかったが、父の仕事の都合もあって長崎発東京行きの列車へ乗車。広島駅へ着いたのは昭和20年8月6日午前2時すぎだった。ここで列車は突然運転中止となってしまった。次の列車時間を調べに、何回か駅事務所へ行っていた父が急ぎ駆け戻って来た。「不定期の軍用列車が来る。駅にいる“民間人”の乗車を特に許可する」というのである。(中略)やがて列車はゆっくりと広島駅を離れた。駅の時計は6日の午前6時を指していた。それから2時間後、原爆は一瞬にして広島20数万人の命を奪ったのである。
 さらにその3日後、悪魔は再び、あの長崎に襲いかかった。伯父一家は伯父と長男を残して犠牲となった。祖母・伯母、そして一緒に握り飯を作りながら笑い興じた従姉妹たちも死んだ。
 「悲しい時、苦しい時、つらい時、何かお願いする時、マリア様にお祈りしなさい」。公教要理でシスターの云われた言葉だった。子供心にひたすら信じ、長崎脱出を願い続けた少年の祈りはきき届けられ、生の影を与えられた。それが初めての神との出合いであったことを、40才を過ぎた今でも、愚かかもしれないがそう信じている。
 また、ニューズNo.199(90年年3月号)の巻頭言に信生氏は、「その時以来、何か困った時、お願いしたい時には必ず、天使祝詞を唱え、マリア様に取りつぎを祈るようになった」と書いておられます。
 以上、小崎登明著「ながさきのコルベ神父」と「教会ニューズ」の八巻信生氏の文章から聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父が何故、私たちの教会の守護の聖人であるかをご理解していただく契機になればと思い、この文章をしたためました。
 なおご参考までに、八巻信生氏の奥様・お嬢様などのお家族は現在も多摩教の信徒でおられます。