巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

聖書を読んだことがありますか

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 「聖書を読んだことがありますか」と聞かれたら、何と答えますか。
 キリスト教信者ならば「もちろんあります」と答えるでしょう。しかし、「では、聖書には何が書いてあるんですか」と聞かれたら、どう答えるでしょう。自信をもって答えられる人は少ないのではないでしょうか。
 聖書は、一見ただの本です。そこには普通の日本語が並んでいて、大抵は総ルビで小学生でも読めますから、目で追えば読んでいるつもりになるかもしれません。
けれどもわたしたちは、本当に聖書を読んでいるのでしょうか。
 ある男子が、同じクラスの女子からラブレターをもらったとしましょう。以前から大好きだった子が、恥ずかしそうにそっと手渡してくれたのです。家に帰って開いてみると、「入学した時から、ずっとあなたが好きでした。こんなわたしでよかったら、つきあってくれませんか」と書いてあります。
 そのとき、もしも「この『あなた』って、だれだろう。ああ、うらやましい。あの子からこんなラブレターをもらうなんて、なんて幸せな奴だ。」と思うとしたら、よほど鈍感な人物だというしかありません。
 この場合、彼はこのラブレターを読んだといえるでしょうか。

 聖書の作者は、神です。「聖書は、それを書いた人に注がれる聖霊の働きによって神が書いた」というのは、キリスト教の信仰箇条です。そしてそこには、ただ一つのことが書いてあります。
 「わたしは、あなたを、愛している」
 聖書はわたしたちに、神の愛を語っています。ときに象徴的な神話で、あるいは掟と教訓の書として、また救いの歴史の記録として、そして美しい詩のことばで。ときに預言者の預言として、あるいは福音書という奇跡的文書で、また使徒たちの手紙として、そして神秘的な黙示のことばで。そこには、徹底してたったひとつのことが書き記されているのです。
 「わたしはあなたを、愛している。天地創造の初めから神の国の完成のその日まで、絶対に、完全に、永遠に、愛している」
 いうまでもなくその「あなた」とは、聖書を読んでいるあなたです。この神の愛のことばを、読んでいるわたしに対して語られていることばとして読めないのであれば、聖書を読んでいるとは言えません。

 神父のところには、大勢の信者さんが相談に来ます。体のこと、心のこと、ときにお金のこと。夫のこと、子供のこと、ときに姑のこと。仕事のこと、人生のこと、ときに教会の中で不満に感じていること。
 神父は忍耐強いので、優しい顔でうなずきながら聞いていますが、その心の中で何を考えているかを、お教えしましょう。
 「聖書を読め」
 そう思っているのです。なぜなら、すべての答えは聖書に書いてあるし、それを信者であるあなたは、もうすでに読んでいるからです。いや、先ほどの言い方でいうなら、読んでいるのに読んでいないからです。本当に読んでいるなら、感銘と感謝と感動のあまり、愚痴も悩みも恐れも吹き飛ぶはずだからです。
 少なくとも、わたしはそのように読んできました。
 病気で悩んだとき、イエスさまから「天の父はあなたを生かしている。明日を思い煩うな」と言われて、ほんとにそうだと救われました。心が折れそうなとき、イエスさまから「世の終わりまで、わたしはいつもあなたと共にいる」と言われて、励まされました。恐れのあまり死にそうになったとき、イエスさまから「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われて、熱い涙をこぼしながら祈りました。「はい、あなたを信じます」と。
 救い主、イエス・キリストから「あなたを愛している」と言われたのに、あと何が必要なのでしょう。あとだれに愛されたら満足するのですか。あとどんな幸せを望むのですか。あとどんな不満があるというのですか。もしもほかにどうしても何か必要だ、まだ不満だ、悩みがつきないというなら、申しあげたい。
 「聖書を読め」

 とは言え、聖書は一人で読むのにはなじまない書物です。聖書はそのはじめから、大勢の仲間たちによって、大勢の仲間たちに向けて、大勢の仲間たちと読むために書かれているからです。
 その意味でも、聖書を読む最高の方法は、ミサに集うことです。ミサ自体が生きた聖書だからです。司祭が唱える言葉も会衆が唱えることばも聖書に由来していますし、とりわけ朗読台で朗読される聖書のことばは、いま、ここで、神がわたしに語りかけていることばなのです。その朗読を受けて語られる司祭の説教は、まさに「あなた方が耳にした聖書の言葉は、いま、実現した」という宣言であり、クライマックスの聖体拝領では、その聖書のことばがいまここで実現していることを、みことばであるイエス自身を食べて味わっているのです。
 ミサで聖書を読むということは、そのまま、神に愛されているということです。信じる仲間と共に聖書のみことばに触れ、真の平安を味わっているミサは、もはや天国です。
 そんな天国の準備として、金曜日午前十時より聖書講座を開いています。次の主日に読まれる聖書について、晴佐久神父がわかりやすくお話しています。難しい知識は一切必要ありません。聖書の一言ひとことが、まさにあなたへの愛のことばであることをゆっくりと味わう講座です。ミサをオペラにたとえるなら、幕が上がる前の前奏曲、といった感じです。信者歴の長い人も、洗礼前の求道者も、だれでも参加できます。
 聖書なくしてミサはありません。ミサなくして教会はありません。そして、教会なくして聖書はありません。聖書は、信仰の家族と共に教会で読め、ということです。

連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第20回

≪「荒れ野のオアシス教会」を目指して≫

石井 省三

 「荒れ野のオアシス教会」を目指して・・・というタイトルで何か一文を、とのご依頼に、拙文を一筆書くことにしました。
 私は、ほとんど日曜日にミサに来るとき、障害者仕様の車を運転して来ます。手足麻痺のため、電車バスの公共交通機関が原則的に使えないためです。決してノロノロ運転するでもなく、法定いっぱいの速度で走っているつもりです。うっかり制限を超えて走ってしまうと、獲物を狙う白い狼の餌食になってしまうことは、よく知られているところです。一方、尾根幹線でもニュータウン通りでも、少しでも前車との間隔を開けると、法定制限速度や何のその、猛然と追い抜き追い越していきます。そのことも含めて、ドライヴァーのマナーだけの問題ではなく、仕事の世界でも、一般の日常生活のあらゆる場面でも、人心の在り様の一端に過ぎないと思えます。
 教会外の一般社会、いわゆる世間が、あらゆる面からも、すさまじい“荒れ野”であることは、私だけの感じ方、見方ばかりとは思えません。
 教会に着き、聖堂に入ると、もう大丈夫、ほっとした安心感に浸ります。私にとって、教会の存在そのものが荒れ野のオアシスなのです。その緑滴るオアシスへ入ると、いろいろな案内人が、甘い水はこちらへどうぞと案内してくれます。それが各種当番等の役割分担だと思います。そうした居心地の良い場所を求めて、これからも、「荒れ野の中のオアシスをめざして」、通い続けようと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

2012年 2月号 No.462

2012年 2月号 No.462

発行 : 2012年2月18日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


聖書を読んだことがありますか

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 「聖書を読んだことがありますか」と聞かれたら、何と答えますか。
 キリスト教信者ならば「もちろんあります」と答えるでしょう。しかし、「では、聖書には何が書いてあるんですか」と聞かれたら、どう答えるでしょう。自信をもって答えられる人は少ないのではないでしょうか。
 聖書は、一見ただの本です。そこには普通の日本語が並んでいて、大抵は総ルビで小学生でも読めますから、目で追えば読んでいるつもりになるかもしれません。
けれどもわたしたちは、本当に聖書を読んでいるのでしょうか。
 ある男子が、同じクラスの女子からラブレターをもらったとしましょう。以前から大好きだった子が、恥ずかしそうにそっと手渡してくれたのです。家に帰って開いてみると、「入学した時から、ずっとあなたが好きでした。こんなわたしでよかったら、つきあってくれませんか」と書いてあります。
 そのとき、もしも「この『あなた』って、だれだろう。ああ、うらやましい。あの子からこんなラブレターをもらうなんて、なんて幸せな奴だ。」と思うとしたら、よほど鈍感な人物だというしかありません。
 この場合、彼はこのラブレターを読んだといえるでしょうか。

 聖書の作者は、神です。「聖書は、それを書いた人に注がれる聖霊の働きによって神が書いた」というのは、キリスト教の信仰箇条です。そしてそこには、ただ一つのことが書いてあります。
 「わたしは、あなたを、愛している」
 聖書はわたしたちに、神の愛を語っています。ときに象徴的な神話で、あるいは掟と教訓の書として、また救いの歴史の記録として、そして美しい詩のことばで。ときに預言者の預言として、あるいは福音書という奇跡的文書で、また使徒たちの手紙として、そして神秘的な黙示のことばで。そこには、徹底してたったひとつのことが書き記されているのです。
 「わたしはあなたを、愛している。天地創造の初めから神の国の完成のその日まで、絶対に、完全に、永遠に、愛している」
 いうまでもなくその「あなた」とは、聖書を読んでいるあなたです。この神の愛のことばを、読んでいるわたしに対して語られていることばとして読めないのであれば、聖書を読んでいるとは言えません。

 神父のところには、大勢の信者さんが相談に来ます。体のこと、心のこと、ときにお金のこと。夫のこと、子供のこと、ときに姑のこと。仕事のこと、人生のこと、ときに教会の中で不満に感じていること。
 神父は忍耐強いので、優しい顔でうなずきながら聞いていますが、その心の中で何を考えているかを、お教えしましょう。
 「聖書を読め」
 そう思っているのです。なぜなら、すべての答えは聖書に書いてあるし、それを信者であるあなたは、もうすでに読んでいるからです。いや、先ほどの言い方でいうなら、読んでいるのに読んでいないからです。本当に読んでいるなら、感銘と感謝と感動のあまり、愚痴も悩みも恐れも吹き飛ぶはずだからです。
 少なくとも、わたしはそのように読んできました。
 病気で悩んだとき、イエスさまから「天の父はあなたを生かしている。明日を思い煩うな」と言われて、ほんとにそうだと救われました。心が折れそうなとき、イエスさまから「世の終わりまで、わたしはいつもあなたと共にいる」と言われて、励まされました。恐れのあまり死にそうになったとき、イエスさまから「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われて、熱い涙をこぼしながら祈りました。「はい、あなたを信じます」と。
 救い主、イエス・キリストから「あなたを愛している」と言われたのに、あと何が必要なのでしょう。あとだれに愛されたら満足するのですか。あとどんな幸せを望むのですか。あとどんな不満があるというのですか。もしもほかにどうしても何か必要だ、まだ不満だ、悩みがつきないというなら、申しあげたい。
 「聖書を読め」

 とは言え、聖書は一人で読むのにはなじまない書物です。聖書はそのはじめから、大勢の仲間たちによって、大勢の仲間たちに向けて、大勢の仲間たちと読むために書かれているからです。
 その意味でも、聖書を読む最高の方法は、ミサに集うことです。ミサ自体が生きた聖書だからです。司祭が唱える言葉も会衆が唱えることばも聖書に由来していますし、とりわけ朗読台で朗読される聖書のことばは、いま、ここで、神がわたしに語りかけていることばなのです。その朗読を受けて語られる司祭の説教は、まさに「あなた方が耳にした聖書の言葉は、いま、実現した」という宣言であり、クライマックスの聖体拝領では、その聖書のことばがいまここで実現していることを、みことばであるイエス自身を食べて味わっているのです。
 ミサで聖書を読むということは、そのまま、神に愛されているということです。信じる仲間と共に聖書のみことばに触れ、真の平安を味わっているミサは、もはや天国です。
 そんな天国の準備として、金曜日午前十時より聖書講座を開いています。次の主日に読まれる聖書について、晴佐久神父がわかりやすくお話しています。難しい知識は一切必要ありません。聖書の一言ひとことが、まさにあなたへの愛のことばであることをゆっくりと味わう講座です。ミサをオペラにたとえるなら、幕が上がる前の前奏曲、といった感じです。信者歴の長い人も、洗礼前の求道者も、だれでも参加できます。
 聖書なくしてミサはありません。ミサなくして教会はありません。そして、教会なくして聖書はありません。聖書は、信仰の家族と共に教会で読め、ということです。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第20回

≪「荒れ野のオアシス教会」を目指して≫

石井 省三

 「荒れ野のオアシス教会」を目指して・・・というタイトルで何か一文を、とのご依頼に、拙文を一筆書くことにしました。
 私は、ほとんど日曜日にミサに来るとき、障害者仕様の車を運転して来ます。手足麻痺のため、電車バスの公共交通機関が原則的に使えないためです。決してノロノロ運転するでもなく、法定いっぱいの速度で走っているつもりです。うっかり制限を超えて走ってしまうと、獲物を狙う白い狼の餌食になってしまうことは、よく知られているところです。一方、尾根幹線でもニュータウン通りでも、少しでも前車との間隔を開けると、法定制限速度や何のその、猛然と追い抜き追い越していきます。そのことも含めて、ドライヴァーのマナーだけの問題ではなく、仕事の世界でも、一般の日常生活のあらゆる場面でも、人心の在り様の一端に過ぎないと思えます。
 教会外の一般社会、いわゆる世間が、あらゆる面からも、すさまじい“荒れ野”であることは、私だけの感じ方、見方ばかりとは思えません。
 教会に着き、聖堂に入ると、もう大丈夫、ほっとした安心感に浸ります。私にとって、教会の存在そのものが荒れ野のオアシスなのです。その緑滴るオアシスへ入ると、いろいろな案内人が、甘い水はこちらへどうぞと案内してくれます。それが各種当番等の役割分担だと思います。そうした居心地の良い場所を求めて、これからも、「荒れ野の中のオアシスをめざして」、通い続けようと思います。どうぞ、よろしくお願いします。