祈られて

春野 優子(仮名)

 深々と降り続く雪の中を歩く3人の姉妹。
 これは、今から50年前の真夜中にクリスマスのごミサに向かう風景です。
 聞こえるのはキュッ、キュッと雪を踏む音だけで、子供ながら真っ白な雪に心が清められていく思いが今でも忘れられません。

 それから50年の長い年月が経って、ようやく洗礼を受けることができました。そして同じ日、同じ時間に姉は雪の札幌で洗礼を受けています。
 神様の計画は何て素晴らしいものと思うと同時に、50年間私たちの洗礼を祈り続けてくれたもうひとりの姉と洗礼名を付けてくれた友人家族、代母さんをはじめ多摩教会の方々の祈りに支えられてこの日を迎えられたことに改めて感謝しています。
 今までいつも、どんな時にも神様が側にいて助けてくれていると感じていたのに、なぜもっと早く洗礼を受けなかったのか。きっと、いつかこの計画も神様が明かしてくれると、今では楽しみにしています。

 長い間、憧れ続けた洗礼とご聖体ですから、きっと雷に打たれたように電流が流れ・・・と大人気なく期待していましたが、そんなドラマチックなことではなく、洗礼を授けていただいたあの聖水の冷たさは、真夜中の雪を思い出し、ご聖体は一生忘れることはないものとなりました。
 家で洗礼を受けられたことに感謝の祈りを捧げていると、心の底からじわーっと暖かいものが感じられ、自然に涙がこぼれ、神父様から言われていた「心を開いて神様を受け入れること」の意味が分かりました。いつのまにか神様から私の心に入ってくださったと、この温かいものが教えてくれました。

 翌日のご復活祭の日に、ウグイスが今まで聞いたことのないような長く長く、何回も何回も鳴いて、まるで洗礼を祝福してくれているように聞こえました。
 今までよく目を凝らして見て、耳を澄まして聴くと、いつも助けてくださっていた神様が側にいて、話しかけてくれていることに気づくはずでした。洗礼によって、私の目、耳、心を開かせてくださったのだと思います。
 たくさんの方々の祈りに支えられて心から感謝しております。

巻頭言:洗礼こそは神の愛の表れ

主任司祭 晴佐久 昌英 神父


 カトリック教会の活動の基本は、「洗礼を中心とした教会共同体づくり」にあります。
 洗礼の秘跡を教会活動の中心とすることで教会共同体が元気になり、それによって福音を語る教会の輝きがいっそう増すからです。
 神の愛を最高のかたちで表しているのはイエス・キリストであり、キリストのからだである教会ですから、その教会の原点である洗礼こそは、神の愛の目に見える最高のしるしなのです。
 現代の教会は、もっともっと洗礼の秘跡を大切にし、もっともっと人々を洗礼に招かなくてはなりません。メンバーが次第に減っていくチームを、誰が信頼するでしょうか。考えてみてください。もしも今後洗礼を受ける人が一人もいなければ、現在の信者の最後の一人が消えたとき、この世の教会も消滅するのです。

 25年前に司祭になった私は、神学校で習った通りに、ミサをすべての活動の源泉とし、ミサの根源である洗礼の秘跡を中心にして、教会共同体づくりに励んできました。信者たちに洗礼の意義を語り、入門講座を充実させ、入門係を集め育て、教会を訪れる人にひたすら福音を語って入信の秘跡に招き続けてきました。当然のことながらこの25年間、担当した小教区で信者の数が減るという体験を一度もしたことがありません。多摩教会の受洗者も、この3年で113人になりました。所属信徒が一割以上増えたことになります。
 これは、初代教会以来変わることなく、洗礼が神の国の目に見えるしるしの極みであることの証しです。神は、ご自分がどれほど一人ひとりの神の子を愛しているかということを、なによりも、闇から光へと導かれて救いの喜びに満たされている受洗者の顔の輝きによって示しておられるのです。

 ここに、新受洗者の言葉をお届けします。これらの言葉は、私たちの教会が確かに福音を語っていること、その福音が本物であること、洗礼こそは福音の実りであることの証しです。
信者はもちろん、まだ福音を知らない人にぜひ読んでいただきたいと願っています。

十字を切る

伊藤 英美(仮名)

 正直に言います。
 洗礼を受ける前と受けた今では何も変わったことはありません。
 私が洗礼を受けるきっかけとなったのは、夫の実家がクリスチャンだったというのと、十字を切るのがかっこいいとあこがれていたからです。
 神父様との面接の時にそう伝えると「愛だね」と言われました。そのときはピンとこなかったけれど、愛なのか?…そもそも愛って何だ?と考えているうちになんだかそう思えてきました。
 神父様はずるいと思いました。「もう大丈夫、救われた」と晴佐久神父様に言われるとそんな気がしてきます。イチコロです。
 特に悩みなんてないような私でさえも、何となくコロッといきました。しかし、気持ちの上では何も変わっていないのです。まだまだ洗礼を受けたばかりの赤ちゃん状態の私ですので、これから神様のことを知って行きたいと思います。

 洗礼式で水をかけられているとき、「霊的な願い事をすると叶う」と言われていましたが、すっかり忘れてただただ手はどうするんだっけ?どこで「アーメン」だったっけ? ということにとらわれすぎていたので、少し損した気分になりました。

 洗礼式以来ひとつだけやっていることがあります。食亊の前と夫の運転する車に乗ったときなどに得意気に十字を切っています。(もちろん神様にお祈りしながら)念願の十字を切ることができました。

受洗を終えて

吉良 元裕(きら げんゆう)

 中学2年のクリスマスのころ、はじめてプロテスタントの教会を訪ねてから数十年、迷いながらもやっとここまでたどり着きました。長い間かかって生コンクリートが固まるように徐々に自然に信仰が堅くなってきたように思います。
 もう二度と神様のもとから離れないと堅く決心して13年ぶりに訪ねたこの教会で、とある機会にあっけなく決まってしまった今回の洗礼。
 「聖心(みこころ)にかない時が満ちれば道は開かれる」のを実感しました。14年前この多摩教会を初めて訪れた際、緊張のあまり入口で固まってしまった私に声をかけ、不安で帰りかけていた私をこの教会に導いてくださった方に代親をお願いすることもできました。その方は信仰の心構えも分かりやすく教えてくださいました。あの日この方と出会えなかったら、私は二度とこの教会へ足を運ぶことはなかったでしょう。もちろん洗礼を受けることも。不思議な出会いと再会でした。
 洗礼の日、その方が後から肩に手を置き、しっかり見守ってくださっているのを肌で感じた時、すべてはこの日この時のためだったのだと知りました。

 「昨日までのすべてはきょうのため、きょうのすべては明日のため」
 
 出会いも別離も喜びも悲しみも苦しみも病いも何もかも、経験してきたことすべてが今この瞬間に繋がっている。人生のすべてに意味があることを知ったのです。完璧な神のご計画、み恵みの深さに心から感謝です。
 
 これからは、かつての私自身のように、暗闇の中で迷い、哀しみや苦しみの底であえぎ、孤独と絶望の淵で虚しさと闘っている方々や、その他どんな形であれ、現代の荒野をさまよう多くの方々と共に、歩み寄り添う人生を送りたいと願いながら、神様から進むべき道が示される日を楽しみに待ちたいと思っています。受洗してますますこの気持ちが強くなりました。
 また最後になりますが、素晴らしい準備をして下さった入門係、洗礼係の皆様、温かく迎え入れてくださった全教会員の皆様、本当にありがとうございました。カトリック教会の一員としては、まだ一歩を踏み出したばかりの新参者です。これからもよろしくご指導のほどお願いいたします。