神の御心に感謝

安田 光二(仮名)

 思えば先に転会をさせていただいた妻と共に私たちをこの多摩教会に導いてくださったのはひとえに神の御心と感謝しております。

 キリスト教との出会いは、妻が受洗したプロテスタント教会の日曜礼拝でした。
 何回か通ったのですがどうも肌が合わず疎遠になっていたところ、その教会の方から近くのカトリック教会に素晴らしい神父様がいらっしゃるとの話を聞き、そこで初めて晴佐久神父様と出会うことができました。
 お説教を聞くだけで何と表現したらよいかわかりませんが、何か「活力」をいただき、それからというものは教会に行くことがこんなにも楽しくなるとは思いもよりませんでした。一度だけのことですが、お説教をされている神父様の後ろに本当に神様がいらっしゃると思えたような、貴重な体験をもさせていただきました。

 その後、残念ながら神父様が転任され、これでご縁もなくなったと諦めていたら、あの大震災が起こりました。
 今までずっと心に抱えていたさまざまな苦悩が、この震災を機に一遍に表面化し、自ら解決できず、ついには永年住み慣れた土地を後にして引っ越してきたのが、この多摩の地でした。

 夫婦で新しく人生をやり直そうとやってきた初めての土地で、すぐそばに教会を見つけました。多摩教会です。のぞいたら何と晴佐久神父様がいらっしゃるではありませんか。
 何も考えず引っ越してきただけで、もうご縁もないと思っていた神父様と再会できるとは信じられませんでした。これも神の御心の証しと感謝しています。
 一番喜んだのは妻でした。心の傷が大きく不安な日々を過ごしてきましたが、この多摩教会の皆様と神父様に出会えたことで、すっかり元気になり転会をさせていただくまでになりました。

 今回、私は洗礼にあたり、こんな不完全な自分でもよいのかと思いましたが、これから少しでもキリスト者の一員として社会の役に立つことを心掛けようと心に決め受洗をさせていただきました。
 神に感謝、皆様に感謝

習字教室

吉村 征哉

 文集に載せる感想文を書かなければいけないのですが、受洗された皆さん、大変な人生経験をお持ちの方ばかりで、とても気がひけて書けそうにありません。
 なので、子供の頃の思い出をちょっとだけ書きます。

 私の実家は代々、仏教徒でした。特に祖父母が熱心な仏教徒で、またその宗派が極度にキリスト教を恐れているのかなんなのか、幼い頃、祖父母に預けられて育った私は徹底的といっていいほどキリスト教に敵対することを叩き込まれました。
 祖父母は大好きでしたが、どうしても祖父母の話す反キリスト論には納得できない自分がいて、どういうわけだか、わからないのですがイエスという人が気になって、気になってしょうがないのです。
 「あそこんちは耶蘇
(やそ)
だから近づいてはいけない」などと言うときの祖母は、見ていて悲しい気持ちになりました。

 ある日、そんな耶蘇んちの女の子に、声をかけられました。小学校の3年生位の頃だったでしょうか。
 「こひつじに行かない? ね? おもしろいよ!」
 「硬筆字??」
 てっきり習字教室かなにかと思い、無料だというので、のこのこと、ついて行ってしまいました。
 最初に紙芝居を見ました、ヨナ記を題材にしたものだったように思います。その後、みんなで歌を歌いました。これが私には、衝撃的でした。

 「主、われを愛す‥わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

 西洋の神様なんて、遠い遠い存在の、それこそ天のはるか彼方に住んでおられて、人間のことなんか基本的に気にもかけてないような方で(私のイメージ)、そんな方が人間ごときを愛すとはどういうことだろう?
 「主、われを愛す」ではなくて、「われ、主を愛す」なら、まだわかるような気もするけれど‥。
 思わず連れて来てくれた子に、
 「この歌の歌詞、変じゃない?間違ってない?なんかおかしいよね?」と、問いただしてみるも、
 「ううん、イエス様はみんなを愛してくださるのよ」
 「神様の方が人間を?」
 さらにこの歌の歌詞は、人となられた神様が、私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりとなられて死んで下さったことになっています。よほど私の頭が悪いのか、そもそも小学生には理解し難いことなのか、私は完全に混乱してしまいました。
 習字教室だと偽ってしばらく通っていたこの日曜学校も、祖母にばれそうになり行かなくなってしまい、その後はずるずると仏教徒を続けることになります。

 洗礼後の感想文なのに何だか、信仰告白みたいな変な文章になってしまったので、このへんでやめときます。
 そして今日、洗礼を授かり、このヘタな文章を書いているのですが、額に受けた洗礼の水の感触がまだ恐ろしいほどに残っています。
 たくさんの方から祝福のお言葉を頂き、感想なども聞かれましたがうまく言葉にできず、本当に失礼致しました。
 額の洗礼の水の感触が、召されるその日までずっと残っていればいいなと思います。
 主の平和

「多摩教会に来てみませんか?」

香山 奈々子(仮名)

 「奈々子先輩、元気がないようで心配です」華ちゃん(仮名)が声を掛けてくれたのは、数年振りに参加したゼミ会の帰り道でした。
 カトリック系の大学で、シスターのゼミに属していた私は、「神様が与えてくださった試練ですから、喜んで受け入れます」というシスターの言葉にあこがれを抱きつつも、私がそのような信仰を持つ自信などなく、苦しいときだけ神様を思い出して「助けて下さい!」とお願いしていました。
 「多摩教会に来てみませんか?うちの神父様のお話おもしろくて、きっと元気をもらえますよ」という華ちゃんの言葉をきっかけに、今までずっと気になりながら、あれこれ理由をつけて敬遠してきたけれど、キリスト教を知らないまま人生を終えたらきっと後悔すると考え、教会に通ってみることにしました。

 そして、初めて多摩教会に伺ったのが聖母の被昇天の御ミサでした。(その後のパーティーにもしっかり参加)
 神父さまが力強く宣言して下さる福音を毎週聴き、神様の愛の深さを知るたびに、新たな感動と感謝の思いがわいてきました。これまで、自分の意志や努力で生きてきたと思い込んでいましたが、神様に導かれ、豊かなお恵みと慈しみの中に生かされていたことに気付かされたのです。
 このような中で、ぜひ洗礼を授けていただきたいという思いが強くなりました。
 この思いに至るまでに長い年月がかかりましたが、これも神様のお計らいだったのだと思います。神様に感謝。

 大学の修道院創立者の洗礼名をいただき、代親になってくださったシスターから贈られたベールを着け、ゼミの仲間たちに見守られながらの洗礼式・・・、この幸せな日は一生忘れ得ぬものとなるでしょう。
 感謝の気持ちを忘れず、これからさらに信仰を深めていきたいと思っています。

 受洗に至るまで入門係の皆さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。 
 最後に・・・、私に「キリストの香り」を運んでくれた華ちゃん、あなたのあの時の言葉で新たな人生を歩み始めることができました。
 本当にありがとう!!

神様に呼ばれて

田島 優作(仮名)

 小学生の頃から原稿用紙に字などを書いたことが全くないので、うまく書けるかどうかわからないのですが頑張って書きます。

 4月7日、自分は洗礼を受けて神様の子にしてもらえたのを本当に嬉しく思います。まだ本当に神様の子になれたのかな?なんて考えてしまって信じられません。

 自分は、今まで、めちゃくちゃな人生をおくっていました。
 不安だらけで自分のことも全く信じてなく、人のことも全く信じてなく、神様のことなど頭には全くなく、人を悲しませたり傷つけたりを繰り返し繰り返し、していました。
 自分のことなんて、もうどうでもいいやって毎日思い、やけくそに今まで生き、そんな気分でいるのが心の底ではイヤだったのかもしれなく酒を飲んでごまかし、薬にまでも手を出して、気付いたら薬から離れられなくなっていました。自分の中で薬が生活の中で一番になり、自分のことを心配してくれる人や大事な友達も失い、一人になってしまいました。

 ある日、薬がきいている状態で何日も何日も寝てないときに車で薬を買いに行く途中で事故を起こしてしまい、運転していた仲間が大けがをしてしまいました。
 自分は、そのときやっと気付きました。このままじゃ絶対にダメになるっ!!もう止めなきゃ!!
 何だかわからないのですがその時に思い出したのが、自分が小学生の頃に無理やり母親に連れて行かされたサレジオの教会や日曜学校でした。子供だったので日曜は遊びたくて遊びたくて、いやいや日曜学校や教会に行っていたのですが、日曜学校の先生のことや、日曜学校で歌った神様の歌や、神父様のことを思い出して、神様を信じる気持ちっていいことだったんだなって思い、何十年ぶりに母親に会いに行って、母親に「教会オレも連れて行ってよ!!」って頼みました。母親はすごく喜んでくれて、母親の周りの人も全力で自分の教会のことで動いてくれました。

 去年の1月頃から教会に行き、仕事が忙しかったりして信者になるための勉強会にも出られず、信者になることを諦めていた頃に、シスターから多摩教会の晴佐久神父様のことを聞き、「神様があなたの事をここに呼んだのですよ」と言われ、自分も神様の子にさせてもらい、本当に嬉しく思っています。

 これからは、神様の子になったのだから、自分を信じて人も信じて、いつも自分の中にいてくれる神様を信じて生きて行きたいと思うようになっています。すぐには自分は変われないけど、できれば人に優しい気持ちを持てたりして生きたいと今は思います。
 神様のことを思い出せたことで母親とも何十年ぶりに会い、教会に来ていろいろないい人に会い、優しい気持ちをもらいました。
 神様のことを自分に思い出させてくれた神様に感謝します。
 「ありがとうございます」