あたたかなまなざし(受洗者記念文集)

筒井 旬(仮名)

 無事、洗礼の恵みをいただき、ほっとしています。
洗礼を受けて劇的に変わったことはありませんが、これから信仰生活を送る中で、日々祈り、愛のある人になっていきたいという希望の光が心を照らしています。

 私が教会に通うようになったきっかけは、20代の終わりに経験した病気によって生じた心の変化によります。当時の私は、不安や恐れを抱きながらも平静を装い、早く病気を治して元に戻らなければという焦燥に駆られ、無理して頑張りすぎたのだと思いますが、次第に心を失っているように感じていました。心配をかけた両親に対してもずいぶんと横柄な態度をとり、自分の思いやりのなさに自分も傷つきました。
 こんなことではいけない、思いやりのあるやさしい人になりたいと思い、そうなるための心の拠り所を求めました。そんな時に、以前ミサで聴いた神父様の説教を思い出し、また話が聴きたくて、教会に通うようになりました。
 入門講座に通い、ミサに与り、福音を聴きました。
 やさしい言葉で語られる福音に心が満たされていったように感じます。
 そして、通い始めて半年くらいした時に、神様のあたたかなまなざしを感じる瞬間に出会いました。
 その日は病院の定期検診で、先生に「もう大丈夫ですよ、心配ありません」と言ってもらえた日でした。やっと病気から解放されたと思った時に、神様が「よかったね」とほほえみ、一緒に喜んでくださっているように感じました。
 病院のベッドで一睡もできずにただ天井を眺め、心細さや痛みに一人耐えていた夜も、神様は側にいてくださったのだと気づきました。そして私は神様の呼びかけに素直に返事をすることを決めました。

 ここまで来ることができたのは、たくさんの祈りに支えられていたからです。
 今までのたくさんの出会いに感謝しています。
 皆様、そして晴佐久神父様、ありがとうございます。
 これからは穏やかにゆっくりと祈りとともに生きていきたいと思います。

導かれて(受洗者記念文集)

奥山 美怜(仮名)

 「エクレシア・・・呼ばれた者の集まりへようこそ、と申し上げたい。神さまが、今日ここに私達を集めて下さいました」 母の葬儀ミサからまだ幾日も経たない1月末の夜、初めて参加した入門講座で晴佐久神父様がこう語りはじめられました。

 長い闘病生活を送った母の最期を見守り、私は深い悲しみや寂しさを抱えながらも、それ以上にとても不思議な自分でも止めようのない、強く熱い思いに揺り動かされていました。私にとって決定的に大切な何か・・・。そのことに気付かされ始めていたのです。
 神父様のお話を聞きながら、私が本当に辿り着くべき場所はここだった・・・と静かな感動が押し寄せてきました。本当に大切なもの…でその場所は満ちていたからです。

 子供の頃から読書好きだった私の本棚には、八木重吉、遠藤周作、井上洋治などの本が増え、大学の礼拝堂で過ごす時間もとても好きでした。両親は私が20代の頃からそれぞれ洗礼を受けましたが、私自身はずっと中途半端なまま、自分と神との直接的な出逢いを求め続けていたように思います。
 20代から30代の希望に満ちて人生を切り開く時期に、私は大きな試練を受けました。将来を思い描き歩んで行きたかった道を進むことはできず、この世の思惑や定めに振り回されながら、曲がりくねった長い道を歩きはじめざるを得なくなったのです。でもその道はまた、私が自分自身を見失わないために敢えて自ら選んだ道でもありました。
 様々な思いに苦しみながら一人で未熟な祈りを続けていた私に、今振り返ると神さまはずっと寄り添っていてくださいました。そしていつの間にか、あの日々があったからこそ私が今ここに辿り着くことができ、その時に感じた痛みや苦しみはすべて、神さまの深い摂理の中にある恵みだったのではないかと、感謝のうちに思えるようになっていたのです。心細く悩みながら歩いていた人生の途中で遭遇した出来事や人、言葉は、神さまからのメッセージだったのでは・・・。神のみ旨は、私の願いや想像をはるかに超えた深いものでした。

 母のことを記すのはまだ少し勇気がいることなのですが、難しい病を得て最後には話すこと、食べること、自分の手足を動かすこともできない日々が長く続きました。その母がかろうじて声を出せた頃に、ゆっくりと私に伝えてくれた言葉は、

 「だい・・・じょうぶ」「お・ゆ・だ・ね」だったのです。

 晴佐久神父様の、福音を語られるまっすぐな言葉と祈りに導かれ、私は洗礼を授けていただくことが出来ました。ミサで包み込まれる歌声、合わせる祈りの力の素晴らしさ…その中の一粒になれた今、言葉に表すことのできない静かな安心感に包まれています。
 小さく、謙遜なものとなり、「神さま・・・」と無心に祈ることができますように。
 生まれたばかりの二十六つ子の一人として、皆様に導いていただけますように。
 入門係の皆様、代母のS様、そして晴佐久神父様 本当に有難うございました。

 そして、母に、心から感謝をこめて。

御心を信じて生きる(受洗者記念文集)

越川 麗花(仮名)

 洗礼を授けていただき、ようやく私もクリスチャンの仲間入りができたことを大変幸せに思います。

 20歳の頃、神様を求めカトリックの教会に通い、洗礼を受けるために勉強をしていた私でしたが、復活祭前になり一人で信仰をしていく自信がなくなり、洗礼を受けることを断ってしまったということがありました。その頃は、ミサに与っていても自分の罪の大きさばかりを感じ、神様が私を愛してくださっているということは全く感じられずにいました。自分とは何なのか、何のために生きているのか、どう生きればよいのか、自分の存在価値は……光の見えないトンネルの中にいるようでした。

 そんな私に、転機が訪れたのは、25歳の時でした。何でもない晴れた冬の日に、「今までも大丈夫だったし、これからもずっと大丈夫」という強いメッセージのようなものを感じました。私は、その日を境に神様に生きる希望のスイッチを押してもらったようでした。それまで暗闇のように思っていた日々も、神様の存在を全く感じられないような時も、神様はずっと私を愛してくれ、ずっと見守ってくれていたということに深く感動し、純粋に生きている喜びを感じられるようになりました。何の価値もないように思っていた自分を、神様はずっとずっと愛してくださっていたのだということは、私にとって大きな生きる自信となり、生きる意味を見出すきっかけとなりました。

 その後、教会とは関係ないところで出会った夫は、カトリック信者でした。結婚してからの15年は、8回の引っ越しで、生活に慣れることや子育てに追われ、あっという間に過ぎていきました。そして、昨年の春、夫の仕事の関係で、多摩に引っ越してきました。生活が落ち着いてきた秋頃、美しい景色に度々神様の愛を感じました。今、ここに自分がいることが、完全なる神の導きで、御心そのものであるという感覚があふれてきて、これからの人生を神様に全部委ね生きたいという気持ちが強く湧き出てきました。

 そして、迎えたクリスマス。夫の両親と家族4人で多摩教会のミサに与りました。久しぶりに与るミサに懐かしさと温かさを感じ、愛のあふれる晴佐久神父様のお説教に家族4人が、また来週もミサに与りたいと自然に思いました。今年の1月の半ばより入門講座に出るようになり、洗礼を受けたいという気持ちも芽生えてきました。そこには、自分の意志だけではない、大いなる力が働いていたように思います。

 子どもたちも、日曜学校で、改めてイエス様のことを知るようになり、それぞれに神様の愛を感じ、多くのことを学んでいきました。私も子どもたちも自然にイエス様を信じて生きていきたいと、それぞれに思うようになりました。

 そして、迎えた洗礼式、額に沢山の水を受け、生まれ変わったような清々しい気持ちになりました。ようやく私も神様を信じるものと受け入れられたのだと、本当に嬉しい気持ちでした。これからが、信仰生活のスタートです。いつも、どんな時も神様の愛を信じ、喜び、祈り、感謝して、これからの人生を生きていきたいと思います。

 最後に、力強い福音で私たちを洗礼に導いてくださった晴佐久神父様、洗礼を受けるにあたって優しく背中を押してくれた代母のKさん、信仰をともに深めていける家族、いつも私たち家族のために祈ってくれていた両親、私たちを温かく迎えてくださった多摩教会の皆様、本当にありがとうございました。

 そして、26人、一緒に受洗した良い仲間を与えてくださった神様に、心から感謝します。