巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「教会と呼んではいけません」

教会と呼んではいけません

主任司祭 晴佐久 昌英

 9月7日、月曜日の朝にローマに着くと、テレビは前日の教皇フランシスコの「各教会一家族、難民を受け入れてください」という声明のニュースでもちきりでした。
 「多くの人々が、戦争や飢餓から逃れて難民となり、生き残ることを願いつつ旅立っています。こうした悲劇を前にして、福音は、その人たちに具体的な希望を示すようわたしたちを招いています。『がんばって、耐えてください』と言うだけではいけません。したがって、欧州の小教区、修道院、聖地巡礼地にお願いします。福音を具体的な形で示し、それぞれ難民の家族一世帯を受け入れてください」
 現在の欧州の難民事情を見るにつけ、このパパ様はきっとそういうことを言い出すだろうと思っていましたが、もはやこの待ったなしの状況にあって黙っていられない、ということなのでしょう。9月6日の「お告げの祈り」の前に、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者に呼びかけたのです。
 声明の最後には、「このもっとも小さい者にしたことは、わたしにしたことなのです」というマタイ福音書のイエスの言葉を引用したうえで、「バチカンも難民二世帯を受け入れます」と表明しました。
 欧州には小教区、修道院合わせて10万以上の共同体があるという報道もありましたが、すべての現場がこの要請に従えば、単純計算しても10万家族が救われるということになります。

 9月9日、水曜日の教皇一般謁見の日には、申請してあった謁見の入場券を前日に手に入れて、早朝からサンピエトロ広場の入り口に並び、一つのブロックの最前列に陣取って教皇様を待ちました。フランシスコ教皇にお会いするのは聖ヨハネ・パウロ2世教皇の列聖式以来、3回目ですが、相変わらずの人気で、広場はいっぱいでした。
 この日の説教は、家庭と共同体に関するもので、6日の声明も意識してでしょう、「福音に真に従う教会は、いつも扉を開いている、もてなしの家のようになるに違いありません」と語りかけ、「閉ざされた教会や小教区、教会組織のことを、教会と呼んではいけません。博物館とでも呼ぶべきです」とまで言い切りました。
 「教会と呼んではいけない」!
 おっしゃるとおりです。ドキッとさせられます。わが多摩教会を、パパ様は教会と呼んでくださるでしょうか。パパ様はこうおっしゃいました。
 「イエスの周りに集う人々は、もてなしの心にあふれひとつの家庭を形作ります。それは閉鎖的なものではありません。そこにはペトロやヨハネがいますが、そのほかにも飢えた人、渇いた人、異邦人、迫害されている人、罪人など、多くの人々がいます。そしてイエスは絶えず皆を受け入れ、語りかけます。神に招かれた人々から成るこの家庭を守るために使徒たちは選ばれたのです」

 難民問題は海の向こうの話ではありません。最近、多摩教会に集う人の中にも、様々な事情で住むところを追われたり、明日食べるものにも困り始めた人が複数います。「福音を具体的な形で示し」、「もてなしの心にあふれた一つの家庭を形作る」ためにも、何か本気で始めるよう、神さまから呼びかけられていることは明らかです。
 つい先日は、ひとつの困窮家庭を救うために、数名の有志の信者たちが具体的な対策を話し合いました。わたしはそれをひそかに「教会家族委員会」と呼んでいるのですが。
 パパ様は、「そんなのは無理です」と言いがちなわたしたちを励まして、「主はわたしたちのために奇跡を起こしてくださいます」とも言ってくださいました。
 「家庭と小教区は、社会生活全体を一つの共同生活にするという奇跡のために働かなければならないのです。家庭の皆さん、小教区の皆さん、聖母マリアの勧めに従い、イエスが言いつけたら、その通りにしましょう。そうすればあらゆる奇跡の源、日常生活における奇跡の源を見出すことができるでしょう」