巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「いつくしみの特別聖年」

いつくしみの特別聖年

主任司祭 晴佐久 昌英

 「いつくしみ」ということばには、特別な温かさがあります。
 「愛」よりいっそう人間的で、特に弱い存在に対する優しさが感じられます。手元の辞書を引けば「いつくしむ」の意味として、「かわいがり大切にする。いとおしむ」とあり、用例には、「いつくしみ育てられた子」があげられていました。確かに「いつくしみ」には、まだ小さなおさなごを「かわいがり、大切にする」親心のイメージがあります。
 今年の12月8日から、「いつくしみの特別聖年」が始まりました。
 教皇フランシスコが、就任して間もないこの時期にわざわざ「特別聖年」という形で「いつくしみ」を強調したのは、そのような「弱い人をかわいがり大切にする」心が、現代社会において急速に失われつつあるからにほかなりません。
 いつくしみの特別聖年公布の大勅書には、そのことがはっきりと表明されています。要約すれば、「いつくしみこそ神の特徴であり、神はイエスをとおして限りないいつくしみを明らかにされたのであり、わたしたちキリスト者もまた、もっと真剣に神のいつくしみの具体的なしるしとならなくてはならない」というものです。
 日ごろから「教会は野戦病院であれ」という教皇の意図は明らかです。この現代という精神の貧困、家庭の危機の時代に、「いつくしみをもって、実際に目の前で苦しむ人をいたわれ」と言っているのであり、経済的不均衡と、社会的不寛容という現実を前に、「いつくしみをもって、実際に目の前の人から流れ落ちる血を止めろ」ということです。
 虐待とテロのニュースに溢れ返る毎日、もはや状況はまったなしであることは、だれの目にも明らかです。災害の現場に救援隊が駆けつけるように、今こそ教会は、具体的に足を運び、具体的に手を伸ばし、具体的に口を開いて、キリスト教本来の「よいしらせ」を人々にもたらさなければなりません。福音にはこの世界を実際に救う力がありますし、私たちキリスト者はその福音を手にしているのですから。
 「いいからともかく、一刻も早く一粒でも多く、福音という薬を配ってくれ」と訴える教皇の思いは切実です。

 2015年も、はや終わろうとしています。この一年を振り返る時期でもあります。
 この多摩カトリックニューズの今年の1月号に、主任司祭は「もう少し人に優しくなります!」というタイトルの文章を書きました。多摩教会はこの6年間、「荒れ野のオアシス教会をめざして」というスローガンを掲げてがんばってきたし、それなりの成果もあげて来ているとは思うけれど、さらなる一歩のためにこのスローガンに「もう少し人に優しくなります!」というサブタイトルを付け加えよう、という内容の文章です。
 これは信徒総会でも採択されて、多摩カトリックニューズの表紙に掲げられてきたスローガンにも、翌月からちゃんとこのサブタイトルが付け加わりました。どうぞ今一度、表紙をごらんください。
 教皇は、このたびの大勅書で、こう語っています。
 「(教会は)御父のいつくしみを表さなくてはなりません。小教区においても、共同体においても、団体や運動においても、つまりキリスト者がいるところではどこでも、だれもが、いつくしみのオアシスを見出すことができるはずです」
 そして、具体的な方法として、「身体的な慈善と、精神的な慈善」をあげています。「身体的な慈善」とは、飢えている人に食べ物を、渇いている人に飲み物をというような具体的援助のことですが、教会として重要なのは「精神的慈善」の方かもしれません。たとえば、教皇が上げている例の中に、次のような一節がありました。「悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること」「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと」。
 現に多摩教会がチャレンジしていることでもあります。
 いつくしみの特別聖年にあたり、もう一年、「もう少し人に優しくなります!」と、宣言し続けることを提案します。