特別寄稿:「メイラン神父様について」

特別寄稿
メイラン神父様について

塚本 清

 豊島神父様が、メイラン神父様のカリスを使ってミサをささげていられるのを見ていると、神様の不思議な力を感じます。というのは、メイラン神父様は、八王子教会で43年間主任司祭の職につかれ、八王子教会に所属していた私の曽祖父、祖父、父や親戚なども大変お世話になったと聞いていたからです。そこで、メイラン神父様のことをご紹介しておきたいと思います。
 神父様は1866年(慶応2年)にフランスで生まれ、パリ外国宣教会の神学校を卒業されて1889年(明治22年)に司祭に叙階され、宣教のため日本に来られました。当時は船による旅で約4カ月かかったとのことで、宣教師として日本に行くということは、故郷や家族との生き別れを意味していました。また、この宣教会の慣例で出発の時の見送り人は一人もいなかったとのことです。日本に着いて日本語の勉強などをしてから、1893年(明治26年)に八王子に来られ、それ以前に八王子で宣教活動をしていたテストヴィド神父様(神山の復生病院の創設者)の後を継いだのでした。
 当時は教会の数も少なく、神父様の宣教活動は八王子だけでなく、五日市、青梅、奥多摩、入間(埼玉)、津久井(神奈川)、甲府(山梨)やその近隣の地域などにも及んだそうです。この時代の宣教は、すべて徒歩で行われました。宣教活動が広範囲にわたっていたため、神父様は信徒が信仰を維持できるように家庭での信仰生活に重点を置き、家族そろっての祈りの時間をとるように要請し、信徒は子どもばかりでなく大人も教理の勉強に努力をするようにしていきました。このほかにも八王子教会の本町幼稚園やカトリック府中墓地の設立などにもかかわったということです。
 そして1936年(昭和11年)に清瀬の「ベトレヘムの園」に移り、ここで1949年(昭和24年)に帰天されるまで過ごされたそうですが、戦争の影響があった時は、かなりつらい経験もされたとのことです。
 明治の時代になり、日本でキリスト教の宣教ができるようにはなっても、ヨーロッパからは遠い日本に来る宣教師は数少なかったことと思います。その時代に広大な地域を徒歩で宣教し、信仰の種をまいていった神父様方のことを思うと、その業績は私たちの想像を超えるものではないでしょうか。八王子を始め、多摩西部、埼玉県南部、神奈川県北部、山梨県などを宣教のために踏破し、まいていった信仰の種が今の私たちにつながっていると思います。

(参考文献)
・ 『キリストを背負って六十年 メイラン神父の伝道記録』(昭和62年 塚本昇次著)
・ 『八王子教会百年 1877年~1977年』(昭和52年 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会)

メイラン神父
メイラン神父

 
メイラン神父のカリス
メイラン神父のカリス

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