巻頭言:主任司祭 豊島 治「次、いきます」

次、いきます

主任司祭 豊島 治

 「いつくしみ深く 御父のように」というフランシスコ教皇の呼びかけに応えて、ミサの中で聖歌を歌い、過ごしてきた特別聖年を結び、新しい教会の暦のはじまり待降節に入りました。

 多摩教会で聖年のしめくくりとして行った二つの講話の行事は、その「らしさ」を提示したように思います。

 鶴巻神父さまは病気による障碍を振り返って世の中を見つめ直してくださった貴重な視点を的確に話してくださいました。「ノンステップバスといえども、停留所で歩道に寄せて停止してくれないと、歩行困難者が道路におりねばならず、ステップが二つ自分の目の前に立ちふさがってしまう」など相手を思いやれない社会の態度があることなど。無関心の行動を是とする傾向がある一つひとつを挙げて「そこに、いつくしみはあるのでしょうか」。突きつめて「愛という漢字は心をまんなかに受け止めてできている、はたして私たちはどうか」をおっしゃったことで、普段の私たちで実践できる事柄に示唆を与えてくださいました。

 大阪からいらしてくださった荘保共子さんの講話は期待以上の内容でした。社会の雇用の仕組みの変化、昨今増大している一人親による子育て(父子家庭・母子家庭)。経済的なしんどさの広がり、とくに親のしんどさは子どもにつたわるので、本来の子どもの権利が奪われている。だからこの社会に無関心であってはならないというメッセージを膨大なデーターを用いて解説してくださいました。参加者からは、「うすうすかんじていたことが理論的につながりました」と力になった旨が伝えられていました。

 私のカトリック信者としての歩みはたったの40年強ですが、とりまく社会はとても変わったと感じています。
 1960年代は大物の神学者が何人もでてきていて教会にはダイナミズムがありました。1970年代はその流れをうけて日本でも「大バチカン展」や「教皇来日」もありキリスト教会が注目されていきました。1980年代は日本の教会がどうあるべきかを話合いはじめました(福音宣教推進全国会議)。新共同訳聖書が刊行され、聖書を読み分かち合うことが広まったかと思います。1990年代にはある宗教団体が起こした事件があり見直しがあり、2000年代から今では福音をもってする説教や講話が注目されていったような気がします。教会に集う皆さんもその時代その時代に教会と出会い、その雰囲気のなかで信仰生活をはじめられたのだと拝察します。今はネットをはじめメディアの利用が多岐にわたっていて便利になっています。

 でも、そのながれのなかで、何かが減ったような気がするのです、なにかを忘れてきたような感覚があるのです。教皇フランシスコは今回「いつくしみ」という言葉を示されました。彼は伝記を読むとわかるのですが、出身のアルゼンチンで政府や軍隊、暴力的な組織とも正面から対峙し、厳しい現場の中で、苦しみながら変革の道を歩んできた方です。いのちの輝きを意識している方でもあります。自ら実践してきたことを語っているので説得力があります。

 便利な技術が進み、国境を越えてモノや情報が行き来する世の中は、金銭の価値をはじめ社会のありようをかえていきました。そのなかで文化・思想のぶつかり合いがおこり、苦しむ人や不満をもって対立する構造も目立ってきました。さらにそれを刺激的に演説し民意を煽動する人が台頭しています。その過激さのハードルを上げていくなかで、特定の人を苦しみに追いやる政策を行おうとするポピュリズムとよばれる危機がある。そんな今。

 「静けき真夜中 貧しいうまや 神のひとり子は み母の胸に」の聖歌(カトリック聖歌集 111番「しずけき」)の言葉のとおり、愛の源泉にたちかえる準備の待降節に入りたいと思います。