連載コラム:「シニアの集いに参加して」

= 弱音・不安は神様に預けて、受け入れあう笑顔をもらいに行こう =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第103回
「シニアの集いに参加して」

鶴牧・落合地区 北村 司郎

 多摩教会の今年のシニアの集いは、9月28日(土)、29日(日)主日のミサと、そのあとのセレモニーと日曜日の食事会という形で行われた。今年もこの集いに参加させていただき、感謝申し上げるとともに、当日感じたことを記させていただく。

 多摩教会のシニアの会は数年前75歳以上と決めて、今年は終戦の年の4月1日誕生日の方まで、名簿の上では191名の方々にのぼる。少子高齢化の日本の社会にあって、教会もその例に漏れない事例だと思う。そこで、私たちシニアは社会的にももちろんだが、教会という集団の中で何をしていけばよいのだろうか。もうトシだからと言って、教会の活動を避ける傾向は私自身の中にもある。
 しかし、多摩教会の規約は聖堂共同体という言葉が使われている。教会は共同体、すなわち、コミュニティなのである。以前、幼児洗礼が行われると、当時の主任司祭からは、子供を育てていくのは、両親と代親だけでなく教会全体が責任を負わないといけない、という言葉をよく聞いた。すなわち、それがコミュニティとしての教会の在り方なのだと思う。それであれば、我々シニアにも何らかの出番があると思う。顔と顔が向き合った集団、お互いの人間性がぶっつかりあった集団、だから難しい集団ともいえる。でもだからこそ、子供から我々シニアまで何らかの役割を与えられた集団といえる。

 ミサの終わりに、神父様がホイベルス神父様の「最上のわざ」をお祈りした。私は何年か前、ホイベルス神父様の「年をとるすべ」の中で、この祈りに出会った。その時に比べ、今回、非常に新鮮に感じたのは私自身がトシを取ったからかもしれない。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。 それは祈りだ。
手は何もできない。 けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。

 手足が萎えて何もできないと感じたとしても、私たちには希望がある。キリスト者としての希望である。それがまさに「最上のわざ」なのだ。実行委員長が、「この祈りは素晴らしい。座右の銘にしたい」と最後のあいさつの中で話されていたが、多くの方々が同感だったのではないかと思う。

 食事会の最後に小俣さんの伴奏で「里の秋」を歌った。

しずかなしずかな里の秋
おせどに木の実の落ちる夜は
ああかあさんとただ二人
栗の実にてますいろりばた

あかるいあかるい星の空
なきなきよがもの渡る夜は
ああとうさんのあのえがお
栗の実たべてはおもいだす

さよならさよなら椰子の島
お舟にゆられてかえられる
ああとうさんよご無事でと
今夜もかあさんと祈ります

 この童謡、終戦の年の12月24日NHKで放送され、反響を呼んだそうだ。この歌は里に住む、二人が秋の静かさ、寂しさ、わびしさを歌ったと思っていたが、3番をみるとその解釈は間違いであることに気づく。寂しさ、わびしさはとうさんがいないからである。とうさんは南方の戦地に行っていて、やがて船に乗って帰ってくる。
 私たちが戦後のこの社会を築いてきたわけであるが、もし、唯一誇れるとしたら、この75年間、このような家族を、とうさんや若者を戦地に送るような社会を作らなかったことだと考える。しかし、最近の日本の状況をみると、戦前の社会に非常に似ているという。戦地に送ることも可能な状況になっているという。
 私たちがこの社会に対してもできることは、まだまだあると思う。

 この集まりを準備して下さった、教会の皆さんに感謝します。おいしい食事を当日提供して下さった地区の皆さんどうもありがとうございました。
 これからも身勝手なシニアをよろしくお願いいたします。