連載コラム:「犠牲の世代-西澤 成祐の周辺-」から

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第22回

≪「犠牲の世代-西澤 成祐の周辺-」から≫

佐倉 リン子

 きっかけは、西澤 邦輔訳のダンテの「神曲」だった。30年も前のことだが、次女の毬が6年間お世話になった高知医大で西澤先生は、英語を教える傍ら、聖書研究会を開いていらした。毬が熱心に参加している様子が印象深かった。
 最近私は「神曲」の一部を読み確める必要があり、毬の遺した本棚の前に座った。そして「神曲」の隣にあった同じ書き手の「犠牲の世代・・・」を手に取るや日の暮れるのもかまわず読み進んだ。それは毬が尊敬していた西澤先生についての謎が解けると同時に60余年前に体験した戦争と敗戦の記憶がどっとよみがえって来る圧倒されるような時間だった。
 オアシス考を書いてというカトリック多摩教会ニューズのお申し出に対するのに、この西澤先生の兄上である西澤 成祐少尉(戦死と同時に中尉に任官された)の遺稿集を全体からみるとほんの少しだが抜粋引用させていただきたいと思う。

 西澤 成祐氏は、大正12年高知県安芸郡に10人兄姉弟妹の二男として生まれ、昭和17年東京帝国大学法学部政治学科入学、同18年在学のまま学徒出陣、同年マニラ着任、同20年2月マニラよりマラリヤの高熱におかされながら、部下を率いてルソン島山岳地帯を越え、東海岸インファンタに到着。若い軍医の手当で、マラリヤは快方に向かったものの、食糧そして武器の不足に悩まされた。6月2日未明小隊を率いて軍刀を以って敵陣に斬り込み、被弾、戦死。享年21歳9ヶ月。
 昭和18年海軍予備学徒航空兵として成祐が南に向かってから、敗戦後7年余りの間、家族はその生死さへわからなかったが、昭和26年4月高知新聞に「死刑囚としてモンテンルパに収容されている椿 孝雄氏が、成祐の遺族を探している旨の記事が載った。
 括弧内は邦輔氏の文章そっくりそのままの引用である。
 「それによると、椿氏は比島からカトリック修道女を通じて(後の邦輔宛の手紙では『日本に行かれるキリスト教関係の米人の方に託して』となっているが)学友赤松氏を通して高知新聞に成祐の遺族の住所を尋ねるよう依頼した。」

 次は邦輔氏が新聞記事から赤松氏の手紙の文面と思われる部分を抜粋引用したものを更に引用させていただく。
 「西澤君は昭和19年末、母艦天城からマニラのニコラス飛行場に転勤、同じ学徒出陣の椿君と半か年余行動をともにしたもので、椿君の手紙には『西澤君の遺族たちが彼の戦死の状況を知らせてほしいと望むなら、私は命のある限り書きしらせたい』と結び、枯れぬヒューマニズムがにじみ出ている。」
 昭和28年(1953)7月22日、「椿氏等モンテンルパの生き残っていた死刑囚全員(学徒兵は8名)特赦により釈放されて8年振りに帰国。これは白鴎遺族会(海軍航空予備学生・生徒の遺族と同期生の会)を初めとする全国的な助命嘆願によって比島キリノ大統領を動かして実現したものであった。(元将校の死刑囚約300名中の約半数はすでに処刑されていた)」

 次は邦輔氏のあとがきから引用させていただくことにする。
 「数年前に白鴎会で戦没者遺稿編集の企画がなされた時は、なぜかまだ故人の筆跡を正視する心のゆとりがなかったので、折角の御厚意にお応えすることができなかった。この度、再度の遺稿編集の企画に促され、はじめて亡兄の海軍時代の日記を通読し、ただに兄一人のみならず、同じ運命を辿った数多くの若者たちが偲ばれて、昼も夜も夢見る思いであった。」
 「この度しみじみ痛感したことであるが、人間の歴史の中には犠牲の世代がある。敵味方を問わず、ひたむきな精神を健やかな肉体がその青春の真っ盛りに幾十万となく捧げられ、彼らを哀惜する多くの人々の心の中に消し難い刻印を残すのである。辛うじて死を免れた人々も決して例外ではない。その体と心に障害の傷と痛みを負うているからである。この犠牲は、おそらくは、人間の歴史を潔めるためのものである。少なくともそう信じてはじめて、彼らの愚かしいばかりの献身と忠実は聖なる意義を取りもどし、それによって歴史の彼方に遙かに希望を見ることができるのである。」

 モンテンルパの死刑囚に寄り添って成祐の最後の様子を遺族に知らせる手助けをしたカトリックの修道女の優しさもオアシスであり、それはその手紙の行く先々で目に見えないオアシスを生んだと私には思われる。
 邦輔氏によれば、ご両親はご長寿だったが「成祐を失ったことについて・・・全くと言っていいほど感慨を漏らさなかった。その無言の深さを今ひしひしと感じる。」

 『犠牲の世代—西澤成祐の周辺—』    平成7年7月21日発行
 編集・発行  西澤邦輔  〒784 高知県安芸市本町1-15-8
 印刷・製本 高知印刷(株) 非売品