習字教室

吉村 征哉

 文集に載せる感想文を書かなければいけないのですが、受洗された皆さん、大変な人生経験をお持ちの方ばかりで、とても気がひけて書けそうにありません。
 なので、子供の頃の思い出をちょっとだけ書きます。

 私の実家は代々、仏教徒でした。特に祖父母が熱心な仏教徒で、またその宗派が極度にキリスト教を恐れているのかなんなのか、幼い頃、祖父母に預けられて育った私は徹底的といっていいほどキリスト教に敵対することを叩き込まれました。
 祖父母は大好きでしたが、どうしても祖父母の話す反キリスト論には納得できない自分がいて、どういうわけだか、わからないのですがイエスという人が気になって、気になってしょうがないのです。
 「あそこんちは耶蘇
(やそ)
だから近づいてはいけない」などと言うときの祖母は、見ていて悲しい気持ちになりました。

 ある日、そんな耶蘇んちの女の子に、声をかけられました。小学校の3年生位の頃だったでしょうか。
 「こひつじに行かない? ね? おもしろいよ!」
 「硬筆字??」
 てっきり習字教室かなにかと思い、無料だというので、のこのこと、ついて行ってしまいました。
 最初に紙芝居を見ました、ヨナ記を題材にしたものだったように思います。その後、みんなで歌を歌いました。これが私には、衝撃的でした。

 「主、われを愛す‥わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

 西洋の神様なんて、遠い遠い存在の、それこそ天のはるか彼方に住んでおられて、人間のことなんか基本的に気にもかけてないような方で(私のイメージ)、そんな方が人間ごときを愛すとはどういうことだろう?
 「主、われを愛す」ではなくて、「われ、主を愛す」なら、まだわかるような気もするけれど‥。
 思わず連れて来てくれた子に、
 「この歌の歌詞、変じゃない?間違ってない?なんかおかしいよね?」と、問いただしてみるも、
 「ううん、イエス様はみんなを愛してくださるのよ」
 「神様の方が人間を?」
 さらにこの歌の歌詞は、人となられた神様が、私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりとなられて死んで下さったことになっています。よほど私の頭が悪いのか、そもそも小学生には理解し難いことなのか、私は完全に混乱してしまいました。
 習字教室だと偽ってしばらく通っていたこの日曜学校も、祖母にばれそうになり行かなくなってしまい、その後はずるずると仏教徒を続けることになります。

 洗礼後の感想文なのに何だか、信仰告白みたいな変な文章になってしまったので、このへんでやめときます。
 そして今日、洗礼を授かり、このヘタな文章を書いているのですが、額に受けた洗礼の水の感触がまだ恐ろしいほどに残っています。
 たくさんの方から祝福のお言葉を頂き、感想なども聞かれましたがうまく言葉にできず、本当に失礼致しました。
 額の洗礼の水の感触が、召されるその日までずっと残っていればいいなと思います。
 主の平和