「お命じになるものを与えてください」

富山 博子(仮名)

 受洗から2週間たった今、そのままの気持ちは「楽になった」です。それと自分があるべきところにあるという安堵。
 私には自分が選ばれたという気づきがあります。ただ単に、「選ばれた」のです。
 もちろん主の御心は到底はかりしれませんが、「この人はいつまでも門のあたりをフラフラウロウロしていて目障りだから」と、エイッと引き入れてくださったのではと、勝手に想像しています。

 この1年間は、身の回りに起こることがすべてといっていいくらいカトリック受洗に向かっており、「一体どういうことなのだろう」と押し流されながら、正直恐ろしくなりました。
 でも、今はもうすべてを委ねようという思いでいます。 

 15年も前にもらった言葉、それは英語と日本語の併記で断水のお知らせの裏に鉛筆で走り書きされたものです。

“Give what Thou commandest, and command what Thou pleasest.”
〜 お命じになるものを与えてください、そしてお望みになることをお命じください 〜

 茶色い染みがあちこちに浮き出ている、不思議と捨てずにとっておかれたこの紙片にある祈りは、今、私の中で生きはじめ、繰り返されています。
 (※私の葬儀のカードにはこれを、お願いします。)