それは突然に(受洗者記念文集)

椎野 闘志郎(仮名)

 それは突然、私の身に起こった。
 私は、フォーレの『レクイエム』を、混声合唱団の一員として、一心に歌っていた。ちょうど、第2曲「オッフェルトリウム」(Offertorium)の最終部、短調から長調に転調する部分だった。
 すると、2、30センチの台の上からポンと飛び降りて、着地するような感覚、むしろ子どもの頃、母親に抱き抱えられていた身体が、優しくぽっと地面に立たされて、「さあ、いい子だから自分で歩いてね」と言われた時の感覚を足先から膝にかけて感じた。
 専属聖歌隊練習後の、言わば「外部」の合唱団の練習は、すでに暖房が切られ、照明も一部しかついておらず、薄暗かった。
 2月5日、夜9時頃の東京カテドラル大聖堂はかなり寒く、団員たちは皆コートを着ていた。
 「あれ、何?」と、当然思った。思わず、天井を見上げた。
 すると聖堂の天井の一番高い部分から、スポットライトのような、もっと柔らかい、きらきら光る、ちょうどアルミ箔の小片が、真上の一点からの光を受けながら舞い降りてくるような「何か」が、私に降り注いでいるのが見えた。
 「何だ?これは?」と改めて思った次の瞬間、今度はつま先から上半身に向かって、自分の身体の中を、温かい、えも言われぬ気持ち良い感覚が込み上げてくるのを感じた。と同時に、私には全てが分かった。
 「私は、ここで歌うことが決まっていた。ここで歌うために、今までのことがあったのだ」と。

 今から37年前、高校生の私は、通っていた中・高一貫のカトリックの男子校に聖歌隊がないのを不満に思っていた。
 「なぜないのだろう?ミサの時、中心になって歌う者がいないと困るじゃないか」。校内の音楽関係のクラブは、ブラスバンド部とギター部があったが、ブラバンでは大げさすぎるし、ギター部は、フォークやロックばかりで、とてもミサにはなじまない。
 「よし、ないならつくるまでだ」と、簡単に考えた私は、中学からともに活動してきた通称カト研(カトリック研究会)の仲間を中心に、聖歌隊を組織した。一学年200名足らずの学校で、学年を超えて30名程度の聖歌隊が誕生した。
 しかし、一部教師達からは、学校側の未公認の活動であることを理由に、露骨な嫌がらせを受け、友人達の中にも「学校のまわし者、(いぬ)。」と、ののしる者も少なからずいた。
 近くのカトリック教会にも熱心に通った。当時の横浜は、学連(カトリック学生連盟)という組織活動が盛んで、聖書研究を中心とした勉強会や黙想会を行い、そして教会の枠を超えた親睦を深める催しも多数行われていた。
 もちろん私も、メンバーの一人として一生懸命活動した。「一日も早く洗礼を受けたい」と思った。今思い返しても、熱い思いでいっぱいであった。
 なのに、教会の神父様も「まだ早い」と、洗礼を認めてくださらないし、家族からも反対されて、「なあに、認められないならば、戦うまでだ」と、ちょっと意地になっていた。
 当時の私は今思うと、善か悪かの二者択一でしか考えられない価値観と、何々しなければならないという、教条主義的な考え方に支配されていた。当然、他人に対してもミスを認めず、厳しくあたっていた。
 そんなこんなで、大学受験があり、就職があり、社会人となってからは、休む間もなく働く毎日。いつの間にか結婚して、子どもが生まれて、ますます休む間がない毎日。あれほどまでに熱心に通った教会も、あれほどまでに熱望した洗礼も、日々の生活にすっかり追われ、全く意識から消え失せてしまった。
 たまに思い出しても「あれはちょうど、熱病みたいなものだったんだな」ぐらいに思っていた。

 ところが今から4年前のある日。
 私が仕事から帰宅すると、高二の息子がえらくはしゃいでいた。理由を尋ねると、通っている学校の高三を除く全学年で行われた合唱コンクールで自分のクラスが一番になったという。
 息子の話を聞いた瞬間、息子と同じ年齢の自分の姿が思い出された。
 あの時、非常勤の合間を縫って、聖歌隊を無償で指導してくださった音楽の先生に、急に会いたくなった。いてもたってもいられないほど、無性に会いたくなった。
 早速インターネットで調べた。何と先生は、私の住まいのすぐ隣、国立で、混声合唱団を指導していらっしゃるではないか! 早速、合唱団の練習場所と日時を調べ、練習の終わりを見計らって、会いに行った。
 すると先生は、「皆さん、私の30年来の友人です」と私を紹介して、それを聞いた団のメンバーは、歓迎の歌まで歌ってくれた。
 「いいえ、違うんです。わたしは入団するつもりは・・・・」。
 どうしたことか、あれよあれよという間に、合唱団に入団してしまった私。
 すると次に、聖歌隊で先生が不在の時の指導と、電子オルガンを弾いてくれた同じ学年の友人に会いたくなった。これまた、いてもたってってもいられないほど。
 そして何と何と、彼は私の家のすぐ近くの(多摩)教会に毎週来ているではないか!不思議なことが、よく続くものだなと、思った。
 その彼とも、高校卒業以来実に32年ぶりに再会し、私自身は教会に通うようになったわけではないが、メールで音楽を中心とした話題をやり取りするようになった。

 そして去年、東日本大震災からちょうど1年にあたる3月11日、亡くなられた方を追悼し、被災地の復興を祈念する、チャリティー・コンサートが、東京カテドラルで行われることとなり、私の所属する合唱団が、被災地であり、また、今日もなお原発による放射能に苦しんでいる南相馬の合唱団とジョイントで出演することが決まった。
 このリハーサル中に起きたことが、冒頭に述べた内容である。
 復興祈念コンサートも、大変な感動のうちに無事終了し、私はこの間、自分の身に起きた神秘的な体験を、教会に通う友人に語るために、多摩教会を訪れた。
 去年の4月8日。復活祭の日である。
 私は、友人の彼と、神父様にできる限り正確に、写実的に述べたつもりである。もっともかなり興奮して。
 神父様は、次のように言われた。友人が私に語ったのと全く同じように。
 「それは、間違いなく聖霊の働きです。音楽を媒体として神様があなたを導いて下さった。今あなたが教会に来たということは、そういうことの証しなのです」。
 そしてその証しを、もはや疑いようのない事実として、私が認めざるを得ない出来事が続いて起きた。教会に来た1日目の私に。
 それは「神父様叙階25周年、銀祝のお祝いコンサート」のお手伝いとして、私も歌わせていただくこと。
 なるほど、私があの練習中寒さの中で感じた直感はこういうことであったのか。
 音楽と私の周囲の人を通じて、私は神様に間違いなく導かれたことを確信した。

 「神様、長かったこの37年間という歳月も、本当に意味があるのですね。私は、もうあなたのことを忘れません。そしてそのあたたかい愛の中に生きていることを全身で感じとることができるようになりました。本当にありがとうございます。
 これからは自分で何々しなければならないと自分を追い詰めるのではなく、神様がお示しになる声を、祈りの中で聴き、見るように致します。全ては御心のままに。アーメン!」