連載コラム:「私のオアシス」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第42回
「私のオアシス」

諏訪・永山地区 小川 紀子

 皆様、こんにちは。私はカトリック多摩教会で、皆様のお仲間に入れていただいて3年少々です。まだまだ、カトリックについて分からないことも多く、諸先輩に伺ったり入門講座で神父様にお尋ねするという日々です。そんな私ですから大勢の先輩の信者さんの前で特に語るべき言葉もなく、この原稿を頼まれた時、心では「無理、無理、絶対無理!」と叫びつつ、でも断ったら係の方が困られるだろうなあと、つい格好をつけ引き受けてしまいました。「しまった!」その結果、パソコンの画面を睨みながら「うーん!」と言葉に詰まっている私です。

 今でこそ毎週末、いそいそと多摩教会のミサに通っていますが、それでも「人生、この年になってもまだ、何が起こるか分からないなあ!」というのが素直な気持ちです。
 私は多摩市に住んで久しく、家も偶然、多摩教会の近くにあります。四季折々、川辺を散歩して白く美しい多摩教会を見上げながら、「残念だけど、この教会に私が足を踏み入れることは、まずないなあ」とずっと思っていました。
 でも、特にカトリックというものに偏見を持っていたわけではなく、大好きな教会音楽、勝手に人生の師と仰ぐ犬養道子女史、そしてマザーテレサ、むしろ私の大好な方々は皆さんカトリックの方でした。そして、最近まで気づかなかったのですが、私が20代の頃からずっと大切に思っている日本二十六聖人もカトリックの信者さんだったのですね。

 私は、その昔、地方の片田舎で救世軍の路傍伝道に感化を受けクリスチャンになった父を持ち、幼い頃から日曜日は家族みなで教会に通う家に育ちました。そんなわけで、その後、大人になりあちこち転居しても、その地その地にあるプロテスタント教会にお邪魔して大変お世話になりました。
 親しい友人に誘われ一度だけのつもりで初めて多摩教会に伺った時、それこそ聖堂へ続く階段はアイガーの北壁のように高く思われました。それが、ひと言で言えば「神の摂理」ということでしょうか!全くもって人生何が起こるかわからない!今では帰るべき我が家が、カトリック多摩教会です。

 今、私が多摩教会で一番好きな場所は祈りこめられた聖堂です。
 そして、聖堂に掲げられている十字架とキリスト像を見つめながら、神父様のお話を伺っている時は、まさに心安らぐ至福の時です。日常の雑事を忘れ、心のエネルギーとして御言葉を蓄えます。ひたすら「主よ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え。と皆さんと一緒に声を合わせ祈る時、まさにここが私のオアシス」の瞬間です。
 神父様のお話を伺いながらそっと目を閉じます(決して眠くなったわけではありません)。2000年前のイエス様もイスラエルのガリラヤ湖畔で、こんな風に語られていたのでしょうか。イエス様を慕うたくさんの信者さんと一緒に私も野の花が咲く草の上に腰を下ろし、顔にそよ風を受けながら、一心不乱にその福音に耳を傾けているような錯覚を覚えます。
 美しいミサに毎週通い、神父様が語られる福音を聞き続けて最近思うことは、昔より生きることが楽になったということ。
 3度もイエス様を知らないと言ってしまったペトロを、それでも赦しながら見つめておられるイエス様の深いまなざし、「あのまなざし」は、まさに私のためのまなざしです。
 これからも健康を許され、なんとか万障繰り合わせては、いそいそとミサに行きたいと願っています。