2015年7月号 No.503

発行 : 2015年7月18日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


早稲田大学非常勤司祭

主任司祭 晴佐久 昌英

 気がつけば、もう7年間も早稲田大学の非常勤講師をしています。
 これまでも純心女子大学や、立教大学などで講義をしたことはありますが、天下の早稲田大学から、「世界の宗教」という教養課程の輪講で「キリスト教」を担当してほしいという依頼があった時は、驚きました。それが、理工学部からの依頼だったからです。
 早稲田の理工学部といえば、まさに科学者、技術者のエリート養成機関です。おそらくは宗教を「非科学的」で「反知性的」な営みであると思い込んでいるであろう学生たちを前に、果たして晴佐久神父の取り柄である、直球の福音宣言はどう受け取られるだろうかと、正直言って怯む思いがありました

 しかし、講義を始めてみてすぐに、そのような躊躇は全く無意味であったことを知りました。理系の学生であるにもかかわらず、いやたぶん、理系の学生だからこそ、理性的かつ誠実に「神」について考えていることが分かったからです。何系であれ、およそ二十歳前後の青年たちが最も知りたいことといえば、この世の本質についてです。
 「宇宙はなぜ存在しているのか」
 「人間が生きる意味は何か」
 「科学の意義とは何か」
 「神は存在するか」
 そのような問いについて、講義で一つひとつ答えて行きます。
 「宇宙は神の望みによって誕生し、神の愛の現れる場として存在する」
 「人間は神の子として誕生し、神に愛されるために生きている」
 「科学の意義は、神の愛の業に協力することにある」
 「宇宙があり、人間が生き、科学が進歩することはすべて、神の存在を証ししている」
 みんな目を輝かせて聞いていますし、中には涙を流す学生もいます。リアクションペーパーには、「この講義に出会えただけでも、ここに来てよかったと思います」とか、「自分が実は有神論者であったことに気づきました」などという感想が多く寄せられます。

 実をいうと、科学と宗教は本来、非常に親和性の強い営みです。どちらも、普遍主義こそがその本質だからです。
 科学は、徹底した普遍主義です。いつでもどこでもだれでもが同じ実験結果を得られるのでなければ、真に科学的とは言えません。ある人がいくら「ナントカ細胞はあります」と主張しても、みんながそれを確かめられなければ真理とは言えませんし、人類の役には立たず、単なる独りよがりの原理主義とみなされてしまいます。
 宗教も、徹底した普遍主義でなければなりません。いつでもどこでもだれにでも通用する教えでなければ、真に宗教的とは言えません。ある人がいくら「この教えこそが真実です」と主張しても、みんながそれによって救われるのでなければ真理とは言えませんし、人類の役には立たず、かえって争いを生み出す原理主義になってしまいます。
 徹底して全人類の共通善に奉仕し、究極の普遍主義を目指し続けるという意味で、科学と宗教は同じ目的を持っていると言っていいかも知れません。かたやそれを真理と呼び、かたやそれを神と呼ぶとしても。

 そんな講義を続けて早7年、最近忙しいこともあって、この講義も今年限りにしようと思っていた矢先に、一人の学生が講義の影響を受けて多摩教会に現れ、毎週のミサと入門講座に通うようになり、夏の青年キャンプにまで参加することになりました。7年目にして初めてのことであり、今までの苦労がすべて報われたような思いです。
 来年もまた、早稲田大学非常勤司祭として、入門講義を続けることといたしましょう。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第55回
オアシスに集い憩う旅人たち

稲城・川崎地区 柴田 郁夫

 15年ほど前より、現在は月に一、二度ですが、都内のとある教会の英語ミサで、侍者の奉仕を続けています。そこに集う会衆はフィリピン系の人が半数以上を占め、場所柄、インドの人々も多く、また少数ですが欧米やアフリカ系の人もいて、国際色豊かなミサとなっています。三段ほど高くなっている内陣から会衆席を見回すと、そこには、さまざまな国から来た人々が心を一つにして歌い、祈る姿があります。そして一つのチボリウムから分けられる聖体を拝領し、ミサ後にしばし交流を楽しんで帰って行きます。言葉も文化も異なる地で日々緊張を強いられながら生活する彼らが週の初めに教会に集い、御言葉といのちのパンを頂き、それぞれの日常に戻る。それは砂漠の旅人がオアシスに立ち寄りのどを潤し、しばしの憩いの後にまた旅立っていく姿を彷彿させます。

 さて、奉仕を始めた当初、気になることがありました。それはミサ中に聖堂内で遊ぶ子どもです。英語ミサに集まる子どもの多くは、フィリピン人の女性と日本人の男性との子で、ほとんど英語ができません。いわゆる「泣き部屋」が設けられていますが利用しない親子も多く、子どもは退屈しのぎに堂内で遊び回ります。言葉も分からないミサでは無理もありません。ただ、「親がもっと気を配るべきなのに」と苦々しく思ったものでした。
 ある日のミサで、4歳くらいの男の子2人が聖堂内を走り回っていました。当時の主任司祭はアメリカ人で高齢のM神父で、普段は気さくなおじいちゃんでしたが、ミサの時は神経をピリピリと尖らせ、侍者の動きに少しでも粗相があると後できつくダメ出しをされました。そんな方でしたから、子どもが駆けずり回っていて気に触らないはずはなく、横で奉仕をしながら「きっと苛々しているだろうな」と思うと、こちらまで苛々してきました。結局、子どもたちは終わりまで騒いでいました。
 さて、ミサが終わって退堂するやM神父は祭服姿のまま踵を返して祭壇へと戻って行きました。先ほどの子どもがまだ遊んでいたので「きっと雷が落ちるぞ」と思いながら見ていると、なんとM神父は祭壇に座り込んで子どもたちと遊び始めたではありませんか。その姿を見て、私は雷に打たれた思いでした。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マタイ19:14)
 何度も耳にしているはずのこの御言葉ですが、私はマルタのように多くのことに気をとられ思いわずらった状態で、福音を理解し思い巡らす余裕がなかったのです。己の浅薄さ、未熟さを痛感し、恥じました。それとともに泣き部屋があるのも善し悪しだとも感じました。そして、その日以来、私はミサ中に子どもがどんなに騒ごうとも全く気にならなくなりました。私に身をもって福音を示してくださったM神父は昨年の暮れに惜しまれつつ、主の御許へお帰りになりましたが、私はあの日のM神父の姿と教えを生涯忘れることはないでしょう。

 時が過ぎて私も子を持つ親の立場となり、昔とは反対の意味で気をもむようになりましたが、幸いなことに(?)ここ多摩教会には泣き部屋がなく、神父様をはじめ信者の皆様が温かい目で見守ってくださるので、心置きなくオアシスに憩わせていただいております。

【 投稿記事 】


神様の衣に触れて
-コンサート CARPE DIEM (カルぺ・ディエム)-

稲城・川崎地区 小俣 浩之

 神父様、私はあのとき、病院の小さな聖堂で、神様の衣に触れていたのですね、あの温かさ、あの優しさ、あの安心感、涙がとどめなく流れました。あのときの想いを込めて、音楽を作りたいとずっと願ってきました。ミサ曲の終わり近く、「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ」を、最後に静かに静かに歌うフレーズを、今年の復活徹夜祭の朝、書き上げたとき、あ、私はこの曲を書くために生まれてきたんだ、と感じました….。

 「音楽の歴史にのせて楽しく旅するコンサート」と題して、2015年6月27日に開催したコンサート“CARPE DIEM”、多摩教会のスタッフの方々のご協力はもとより、多くの皆様の励ましに支えられ、無事に終えることができました。グレゴリオ聖歌から始まり、ルネッサンス、バロック、古典派、ロマン派と時代を追って器楽や合唱の数々の名曲を演奏し、プログラムの最後、今回初演となったミサ曲の最終小節のフェルマータの歌声が消えるまで、長丁場にもかかわらず大勢の方が耳を傾けてくださいました。本当にありがとうございました。
 正直のところ、ここまでうまくいくとは思っていませんでした。なにもかもうまくいった、いま、振り返ってみると、そんな感想が湧いてきます。梅雨の真っ最中で雨模様を覚悟していたのですが、最後には天気も味方してくれて、前日まで続いていた雨もすっかり止み、約270名という大勢のお客様に足を運んでいただき、1年前にホールを予約したときには想像もしていなかった大盛況のコンサートになりました。コンサートは多摩教会の土曜日のミサの時間帯と重なってしまったのですが、当日のミサでは「後方支援」のお祈りもしてくださっていたとのこと、お祈りの力を目の当たりにしたような気がします。

 コンサート会場の若葉台 iプラザホールは、一流の演奏家が好んでCD録音にも利用する素晴らしい響きのホールです。そしてステージ上には気品のある美しい音色を奏でるスタインウェイのコンサートグランドピアノ。ピアニストもソリストも合唱団も、この日のためにそれはそれは一生懸命に練習を積んできましたが、あのホールの響きとピアノの音色が、その練習の成果を、そして音楽に誠実に向き合う演奏者の想いを、見事に後押ししてくれたように思います。ピアノ教室の子供達も音楽の旅に一緒に参加してくれましたが、極上の音響を誇るホールで大観衆を前に、子供達は臆せず演奏し、音楽史の旅の一場面をしっかりと担ってくれました。
 このコンサート、当初はまったくの自主公演というつもりでしたが、多摩教会後援にしていただき、多摩教会の信徒が地域の皆様に「音楽会」というかたちでおもてなしをしている、そういう雰囲気が会場に満ち溢れていたことが、ご来場くださった多くのお客様の好評を得ることにつながったと思っています。あの晩、ロビーには晴佐久神父様のカードや著作も販売され、ホールはあたかも多摩教会の出張所のようでした。ふだん、教会とは縁のない一般のお客様もけっこう来られていたようで、ステージでの演奏そしてロビーでの心のこもったサービスによって、教会の温もりを、そのような方々も感じていただけたのではないでしょうか。こうしたおもてなしによる福音宣教の一端を担えたことが、なにより幸せです。

 終演後、永山駅前のお店の一角を借り切って、演奏者もスタッフもみんな笑顔でお互いの疲れを癒やし合いました。
 その宴の席でも、忘れられない出来事がありました。合唱団のメンバーに、来年の春、洗礼を受けることになっている方がいらっしゃるのですが、その方を力づけるための祈りをこめて、「復活の続唱」の混声合唱を全員で歌ったのですよ、なんと飲み屋の一角で。教会の仲間達の温かい歌声に包み込まれて、その方の目から涙が溢れていました。神様の衣に触れたのですね。

【 お知らせ 】


「初金家族の会」からのお知らせ

 梅雨真っ盛り、大雨の7月3日、初金ミサでの福音は主イエスと、トマスとの有名な対話、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」の箇所でした。「私たちが最初に福音に出会った時に励まされた大きな感動を忘れないように」との晴佐久神父様のお話が心にしみました。

 続いての家族の会では、永山地区のトマス三郎さんが30年前に母上様から受洗に導かれた後の信仰体験の数々を披露されました。色々な職場、住まいの変遷などを通して次々と接した数多くの教会での思い出などが印象的でした。

 来月、8月は初金ミサはなく、家族の会はお休みで、次は9月4日(金)稲城地区の竹内博年さんにブラジル在勤7年の体験をお話しいただく予定です。みなさま、楽しい集いにどうぞお気軽にご参加ください。