2016年7月号 No.515

発行 : 2016年7月16日
【 巻頭言:主任司祭 豊島 治 】


まねかれます

主任司祭 豊島 治

 はやいもので、2016年も半分を過ぎました。ここ毎週のように世界中のどこかでテロ事件が起こっています。自分たちと宗教が違う人、考えが違う人はどうなっても構わない、と考えてテロが起こります。日本でもひどい殺人事件も毎週のように起こっています。自分が生きているのが面白くない、自分はもう生きていたくない、そういう自暴自棄に陥って、人の痛みを考えずにひどい事件を起こしてしまう人も次々と出てきているといわれます。

 私は、東京教区の福祉委員会の担当をしています。その中で福祉の現場でよく話をすることがあります。ここ最近現場からでてくる議題案としてくるトピックは「居場所」についてです。それは福祉の現場でもいわれるし、被災地にもいえます。どのような環境がまことの居場所として実感してもらえるかが大事なのです。そこで三つのキーワードがあがるのです。

 安心(自分がそこにいていいところ)
 受容(自分がそこにいてほしいと願われているところ)
 共感(そこにいることが喜びであり、相手も喜んでくれるところ)

 映画「さとにきたらいいやん」が全国公開されています。
 二年前まで大阪教区の法人下で運営され最近独立した法人をもった「こどもの里」という施設のドキュメンタリーです。
 あれはだめ、これもだめと、社会でNOばかり増えているようなこのごろですが、子どもたちの遊びと学び、生活の場として運営されている施設はYESと肯定することから物事はスタートするのだと教えています。

 先日「保育園おちた****」というショッキングなツイートが話題となって国会でも取り上げられましたが、いまの日本では子どもや小さな子どもをもつ人の「居場所」がないという叫びなのだということと解されています。
 お金の豊かさを求める現代は負のスパイラルしか生まない、でも心の豊かさ、地域での人との温もりを見出そうとする人々を描く本作では、希望の連鎖が生まれているような気がします。

 このドキュメンタリーでは3組の母子をクローズアップして描いていて、3組共、家庭に問題があったり、子どもが障碍をかかえている姿があります。
 そんな環境の子どもたちの目や表情は前向きで、明るく澄んでいます。きっと、彼らが集う「居場所」は安心を与え、そこから自由を体感し、自信をもつことに至っているのでしょう。その姿、とくに瞳の輝きは一生ものと感じさせるものがあります。

 「人」としての美しさとはなんでしょうか。

 それはたとえ過酷な現実の中にあっても自暴自棄にならず、希望をもってその現実を受け止めている人をさすのではないかとおもいます。シミも傷もない人生だから美しいのではなく、傷だらけであっても、それを我が物と受け止め、生きている人は美しい。そう気づかせる場が今必要なのであり、私たちの地元でつくっていくべきなのだと促されています。

 映画「さとにきたらええやん」は7月末から新百合ケ丘で公開されます。

【 連載コラム 】


「荒野のオアシス教会を目指して」

一瞬の勇気で、一生の家族!
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第67回
私の求める場所はここだった

稲城・川崎地区 Monica 下田 尊子

Hallelujah !!!  多摩教会の皆さん、こんにちは。
今回、「連載コラム」に載せていただくことになり大変嬉しく思います。昨秋、カトリック多摩教会家族の仲間に入れていただきました。どうぞよろしくお願いします。

 私は、4年前にプロテスタント教会で受洗しましたので、カトリック信徒への転会者です。最近まで、「私の洗礼は神様のお導きによるもので私が受け入れたから、私は生まれ変われた」と思っていました。ところが、旧知のペルーの友人や、数年前に滞在していたバンクーバーの友人たちが、実は地球の反対側から諦めることなく、長い間、私のために神に祈り続けていてくれたことを知り、根気強いとりなしの祈りがもたらしてくれた恵みに改めて感謝しています。

 さて、クリスチャンになった当初は、魂を生き返らせてくれる、み言葉に憩いを見出し、兄弟姉妹と共に祈り合うことで癒やしを得ていました。楽しんで教会活動に参加し、聖書勉強会へも積極的に出席していました。しかし、間もなく、信仰に何か違和感を感じるようになってきました。
 聖書をよりどころとし、そこからの学びから、かたくなで狭い解釈しかできなかった私は、人生の究極の問題にぶつかりました。「天国の住人には誰がなれるのか?」という問いでした。
 死後、誰でも天国に行くことができる?
 まさか、クリスチャンだけが行くことができるの?
 実際に昨春、父が逝去した時に、生前、浄土真宗の僧侶になった父との「天国」での再会を想像して、自分の信じているものに不確かさを覚えました。不安になりました。いつしか心の安らぎ、「砂漠の中のオアシス」を別の何処か他の所に求めるようになっていました。
 折も折、受洗後半年経った頃から私はプロテスタント教会の日曜礼拝に通いながら、長女に誘われてカトリック多摩教会に足を運んでいました。土曜ミサのお説教や金曜日の入門講座で、神父様が語られる慈しみに満ちた神様、イエス様のお人柄に耳を傾けると心が落ち着きました。安心できました。
 そして、私の求めるイエス様と再会して2年半が過ぎる頃、新しい風が私の中を通り過ぎました。爽快で心地よい気分になりました。その時、「私の求める場所はここだった!」、「やっとオアシスを見つけることができた!」、「隣人を愛する人たちの中で私も優しい人になりたい!」と気付き、教会を移ることを決意しました。すぐに神父様に願い出て、昨秋、カトリック信徒に転会することが許されました。
 主のみ心のまま、すでに2年前に次女、今春には長女が洗礼を授かりました。娘たちを導いてくださった聖霊のお働きと、「主の時」に心から感謝しています。
 二人の娘と一緒に御ミサに与り、欲しくて仕方がなかった御聖体、憧れの恵みのパンを今は毎週いただくことができて幸せです。
 「まだ、神様の大きな愛に気付いていない大切な家族、友人、親戚、みんなが心の扉を開いて主を招き入れることができますように」
 これからも祈り続けます。

  「聖霊きてください。私の願いをお聞きください。主よ、お話しください。聴いています。さて、今日、私はあなたのために何ができますか? お望みなら、どうかあなたの道具として私をお遣わしください」
 主の平和

【 お知らせ 】


「初金家族の会」からのお知らせ

 7月1日、福者ペトロ岐部司祭と187殉教者の記念日の初金ミサの説教で、豊島神父様は「今日私どもは、迫害、殉教について理解するのは難しいですが、福音を身であかししたこの殉教者の勇気を思い、日常の生活の中にただ流されていくことなく、ゆるぎない神の愛に生かされていることを信じて歩かなければなりません」と説かれました。

 続いての初金家族の会は、先日五島列島の巡礼に参加された中嶋誠さんのお話しでした。豊島神父様も五島にはお仕事で行かれたとのこと、今回の巡礼には多摩教会から7名参加しました。
 中嶋さんから五島列島での詳しい巡礼報告と宣教・殉教の歴史を聞き、参加者をはじめ出席者全員が発言、分かち合いをすることができ、30分以上も予定時間を過ぎての充実した集いでした。
 なお8月の初金ミサはありますが、初金家族の会はお休みで、次は9月2日です。
 様々な話題でお互いに信仰の絆を深める初金家族の会です。どなたでもどうぞお気軽にご参加ください。