連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第31回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第31回
「入門講座を垣間見て」

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 青柳 敏一

 受付係を兼ねて入門講座に参加させてもらっていると、いろいろ思うことがあります。例えばその参加メンバーを見ると、純粋にカトリックをめざしている方よりも、なぜかプロテスタントの方の参加が時として目立つ場合があります。
 カトリックだ、プロテスタントだ、・・・と言っても、同じキリスト教で「父と子と聖霊の御名による」三位一体の神を信じている仲間同士なので、一同に会しても何ら違和感もなく、プロテスタントの方も自然に溶け込んでいるのが目に見えるようです。
 入門講座終了後の懇親会でもお互いの教会のことを話題に、皆さん結構楽しんでいる様子。当然のことですが、皆さんは晴佐久神父様のご講話を聴きにこられていますが、帰られる時は、感激され以後、固定客のように毎週見える方も多くいらっしゃいます。

 お話によると、所属の教会では日曜日の礼拝(カトリックのミサにあたります)と週1〜2回の勉強会の日以外は教会の扉は閉まったままとのこと。この点については、すべてではないと思いますが、休みなく聖堂を解放しているカトリック教会の歴史というのか伝統の大きさに改めて感謝。

 神父様が力強く 「十字を切る」ことに皆さん最初は躊躇されていましたが、何回か通われると「十字を切る」ことに違和感もなくなるようで堂々と自ら実践され、所属教会の礼拝の場でうっかり十字を切ってしまわないかと気にされるくらいです。「十字を切る」ということがこんなにも素晴らしいことかとあらためて実感させられました。
 もしもうっかり十字を切ってしまい、それを牧師さんが見たらどういうことになるのでしょうか。一度その場面に立ち会ってみたい気もしますが、これはちょっと余計でした。

 多摩教会の入門講座がこれほどまでに好評なのは、もちろん晴佐久神父様の存在あってのことですが、それを支える入門係の方の「おもてなし」には頭が下がります。初めて教会にお見えになる方や、まだ教会に不慣れな方にとっては、とても心強い味方になっています。おかげで皆さん安心されて講座に参加されています。まさしく、ここは心のオアシスそのものではないでしょうか。

 晴佐久神父様が常日頃お話になり、かつ実践されているエキュメニズム(教会一致運動)が多摩教会の入門講座で実現しているのは当然のことと実感しました。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英神父

カトリックとプロテスタント

主任司祭 晴佐久 昌英 神父

 よく、「カトリックとプロテスタントって、どう違うんですか」と聞かれます。ひとことでは答えにくいので、「福音の本質においては、何も違いません」と答えることにしています。「どう違うのか」と言う質問ですから、これでは答えになっていないのですが、多くの場合あまりにも違いを強調しすぎるので、「福音」と言う最も本質的なところで共通しているキリストの家族であることをこそ、知ってほしいのです。
 天の父がすべての人を愛していること。イエス・キリストによってその愛が決定的に注がれたこと。神の愛の働きである聖霊によって教会が生まれたこと。今日もその教会が、この「父と子と聖霊」よる救いを宣言し続けていること。これらの福音は永遠であり、主の復活から今日にいたるまで、ともに福音を語り続けていることにおいては、カトリックもプロテスタントも何ら違いはありません。
 もちろん、秘跡の捉え方であるとか教皇制であるとか、教義上の差異は多くありますが、それにしても太陽の党と維新の会ほどには違いません。私たちはお互いにもっともっと知りあうべきですし、時間をかけてお付き合いすれば必ず一致できることを信じて、キリストの家族であることを喜ぶべきです。そのことは、個人的にここ数年、プロテスタント教会の多くの牧師や信徒と関わる機会を持つようになって、確信しています。

 司祭になってから、近隣のプロテスタント教会とごあいさつ程度のお付き合いをすることはありましたが、ここ数年プロテスタント教会に招かれて説教や講演、講話をするようになってからは、意識が全く変わりました。なにしろ、目の前の信徒たちに、福音を語るのです。違いだのなんだの言ってる場合ではありません。現実にキリストの福音を涙流して聞いている人たちを前にしていると、自分がカトリック司祭である以前にキリストの弟子、「福音宣教者」であることを強く意識させられるのです。
 そんな体験のもとに気づかされたことは、「教会一致は、まずは福音を語るということにおいて、最も現実的になる」ということです。
 5年ほど前の国際聖書フォーラムでの講演に始まり、FEBCでのラジオ放送やインターネットでの説教配信によってプロテスタント諸教会からの講演依頼が増え、日本基督教団の各地での信徒大会、聖公会の教区婦人大会、ナザレン教団の牧師の研修会、ルーテル神学大学での教話、青山学院での礼拝説教、各地の市民クリスマスでのメッセージ、被災地新生釜石教会でのお話しなどなど、時々こんな自分の存在自体が教会一致のひとつの証しになっていると感じるようにもなりました。来年は、聖公会の中高生大会でのお話なんてのもあります。ある友人はそんな私のことを、エキュメニズム(教会一致運動)にかけて、「エキュメン」と呼んでくれています。

 これを書いている2日前も、信州飯田のプロテスタント教会で近隣の教会の方たちを前にお話をしてきました。若い牧師夫妻と親しくなり、その苦労話を聞いて親近感を持ち、信者さんたちと分かち合って、「ああ、どこも一緒だなあ、出会いって素晴らしいな」と共感しました。翌日は同じく信州の、日本基督教団諏訪地区の教会連合の勉強会で講演をしました。多くの牧師たちと知り合い、その苦労や喜びを聞き、信徒の様々な悩みや質問に答え、「ああ、神さまの家族っていいなあ、聖霊の働きって素晴らしいな」と感動しました。
 カトリックの神父がこうしてプロテスタントの教会でごく普通に福音を語り、信徒がごく自然に救われるという事実は、大きな希望だと思います。ユーモアとして両者の「違い」の話が出ることはありますが、福音に感動してつながっている現実には全く違和感はありません。
 教会の一致は、まずは福音における共感から。出会いの霊である聖霊が働けば、すべてが可能です。教会は、聖霊によって生まれたのですから。


※ 参考 ※
カトリックとプロテスタントについては、晴佐久昌英神父の主日の説教集 『福音の村』 の2012年11月25日(「王であるキリスト」の祭日)説教、「今聞いているあなたに」でも触れています。宜しければご一読ください。>>> こちら