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2000年12月号 No.328  2000.12.16

この大聖年の恵みに感謝 宮下 良平神父
多摩教会親睦研修会報告  
大聖年のイタリア・フランス巡礼の旅 井上 信一
五日市霊園墓地の祝別式に参加して 中村 安男

    この大聖年の恵みに感謝
                                     宮下 良平神父

 今年は2000年の大聖年です。そしても うあと半月で終わり、新しい世紀21世紀 が始まろうとしていますo
 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(ヨハネ1:16)
 ヨハネ福音書が冒頭で述べられているとおり、主の恵みが私たちの多摩教会共同体の上 にさらに与えられた一年ではなかったかと思います。
 私たちが長年にわたり切望していた聖堂が5月14日に献堂されたこの恵みは最も大きなものでした。あっという間に時は過ぎてゆきますので、献堂式のことがずいぶん遠い昔のような気もしています。しかし、まだ半年しか経つていないのです。そして少しずつ私たちの聖堂が私たちの中で馴染んできていることを実感しています。ミサでの皆様の祈りが、一つになつて聖堂を覆い、あたかも天使たちの賛美の歌声が響いているようによく感じることがあります。
 思い起こせば、この聖堂建設を通してどれほどの恵みが神様からはじめに与えられているかを教えられました。私たちの祈りと努力なしにはできなかったことは確かですが、すべてが神の計らいの中に事が進められていたことを今更ながら思っております。
 また、もう一つの恵みは『巡礼』でした。この多摩教会が巡礼指定教会として、多くの方々がこの一年を通して訪れてくださったことは私たちにとっても大きな恵みです。そして、その巡礼に来られた方々のために、毎日交代で皆様が迎えてくださつたことを私は感謝いたします。多摩教会を訪れたいろんな方々から、暖かくもてなしてくださつたことの謝辞が伝えられました。私たちの受けた恵みを多くの方々と分かち合う喜びを私も味合わせていただきました。
 また、11月6日から19日まで多摩教会の方21名と巡礼の旅をしてきました。3年前から、私はぜひとも献堂式後に感謝の巡礼をしたいと思い計画してありました。
 そしてこの巡礼で二つの大きな目的をかなえることができました。それは、イタリアのローマでコルべ神父様ゆかりの場所で御ミサをすること。そして、フランスのベコレーでイコンを描かれたシスタ一郁子さんと復活のキリスト像を造られたシスターエゼキエルさんに直接会って感謝の気持ちを伝えたいということでした。
 残念ながら、シスターエゼキエルさんはモンサンミッシェルに修道院を開設するので移られたとのことでしたが、郁子さんとともに12日の主日の御ミサで祭壇を囲みました。
 多摩教会の12日当日のミサで、私たち巡礼団とともに祈ってくださったということを後で聞き、皆様と心を一つにしてこの巡礼をしていたことに感謝しております。この巡礼の恵みが参加された方々だけのものではなく共同体全体の恵みへと分かち合われていかれることを願っております。
 さて、もう一つの大きな恵みは、懸案でした多摩教会の墓石ができたということです。
 何年も前に土地だけは五日市墓地に購入しておりましたが、なかなか建てるというところまで具体化しておりませんでした。聖堂建設という大事業があって、とても墓石を建てるなど考えられませんでした。教会としてもお金を出せる余裕はありませんでした。
 ところが、今年の春先からいろんな方から、お墓を何とかしてくださいという強い要望が寄せられました。そこで、希望者を募り費用を分担して今年中に建てましょうとトントン拍子で話が進みました。53名の方が先ず希望されました。そして、この12月3日に墓石の祝別をいたしました。
 なかなかいい墓石ができました。皆様も五日市墓地へ行く機会がありましたら、ぜひ見てください。多摩教会らしいシンプルで、暖かい雰囲気のある墓石ができました。これでほっとしたと感想を漏らす方もおられました。
 聖なる恵みの年が終わろうとしている今、まさに救い主が生まれたことを祝います。今年のイエス・キリスト様の降誕祭は、新しい世紀の始まりを告げるものです。私たちもこの一年を振り返りながら、多くの恵みをいただいたことへの感謝を神に捧げましよう。
                               神に感謝

     多摩教会親睦研修会報告


 恒例の親睦研修会は今年も11月22、23日にサンピア多摩に森一弘司教さまをお迎えして開かれ、信徒約50人が出席しました。待望の新聖堂が5月に献堂され、多摩教会は今後開かれた教会としてどのように地域と関わって行くべきか、またこれからの小教区などについて司教様から22日夜と23日朝の2回にわたってお話をいただきました。
 以下はそのおりのお話をメモからまとめたものです。


        信仰における若者の道(22日夕)

今日は『信仰における若者の道』という題で話してほしいということなので、私と同年代の60歳を超えた人が若い人たちを見て、この人たちにこれからどう対応していったらよいか、というようなところから話をしてみたい。
 まず、私には理解できない点が二、三あったことから始めたい思います。
 その一つは、今回宮下神父にもご一緒していただいたローマのワールドユース・デイ(WYD)に参加した若者たちのことです。成田を出発した時から彼等の心の内をつかめない面があり、自分と本当に違う点があるのではないかと感じていました。教皇さまのミサの中で、若い人たちの心が開放されていくのを見ていました。日本人グループから教皇さまの祭壇まで2、3キロという距離があります。そのミサの中で若い人たちが興奮して涙を流します。ミサや話し合いをしているうちに、それまで全く知らなかった人々が、連帯感を強めていく。この辺のところが私には理解できません。
 私は20歳台のとき、ローマで6年間勉強しましたが、教皇が御輿に担がれて王様のような冠を被って、大聖堂に入ってこられたのを初めて見た時、ショックを感じました。その姿につまずきました。貧しさの中で権力を捨てたキリストと、バチカンの偉い人々の姿を見比べて、以後大聖堂に行く気がしなくなりました。その・当時の私には、少なくとも批判精神がありました。それに対してこの若い人々の熱狂ぶり、まるでサッカーのサポーターのような騒ぎ、若い人たちは変わってしまったのでしょうか。
 もう一つ分からないのは、14歳の人たちの残酷さです。人を殺してその首を校門に晒すという行為、麻原という人物にいわれてサリンを撒いた人たち。人間の痛みに対する無感動さ。バス・ハイジャックの殺人。池袋の通り魔、無差別殺人。切れるという言葉がよく使われていますが、切れたら人の生命を簡単に殺める。このように理解を超える出来ごとが次々に起きています。
 そこで今回のWYDの若い人たちが、家族の中で、学校の中で、社会の中でどの様な問題を抱えているか、それが見える切り口はどこにあるのか考えました。そして、分かりやすい切り口を与えて、考えてもらおうと思いました。そして若者たちに『自分の居場所を探しながら旅をしよう』という投げかけをしました。居場所に問題かあるのではないか、居場所を喪失しているのではないかと思ったからです。これから、居場所という切り口で問題を見ていきます。
 あなたにとって居場所とは何処ですか?
 *中高年の男性の自殺の急増。
 *職場にも家庭にも居場所がない、居場所の喪失。
 *女性が家庭に居場所を求めず、外に出るようになる。
 *子供は学校では競争、家は空洞化でやはり居場所がない。
 オウムの信者から次ぎのような証言を聞きました。
 その人は幼少期から人間関係の基本的信頼が家庭では得られなかった。親はいずれもインテリで、互いに気を配る関係が幼少から始まったそうです。綺麗すぎるショーウインドー家族でした。家庭がお互いに裸になってぶつかる人間的な絡み合いの場ではなくなっていたのです。このため得体の知れない孤独感空、仲間を求めて新進宗教へ向かわせたのです。
 従来は病気、貧困、争いが宗教へ向かう理由でしたが、現代は違います。居場所を求めて、仲間を求めて新進宗教へと走るのです。
 キレて暴走する少年が何故増えるのでしょうか。
 ストレスが脳の海馬の部分を侵し、感情のコントロールができなくできなくなっていることが実証されつつあります。しかし彼等は受容することによって修復は可能です。
 大人の姿勢、教会共同体としては、幼少期から様々な重圧をかけられてきた彼等に対して『指導する』という姿勢ではをく、彼等の目線に立ち、あくまで受容してかかわるしかないと考えます。                         (文責 井上、加藤)

         多摩教会の在り方(23日午前)

 現在東京教区には72ほどの小教区があります。それが現状で良いのか、来週司祭が集まって協議することになっています。変革案のなかに、小教区を幾つか一つに括る、それを数で3分の一ほどの宣教区とするというのがあります。しかし、小教区をなくすのではありません。一つ一つの小教区にはそれぞれ司祭を派遣する義務が生じますが、小教区との呼び方をできるだけ避けるということです。教会法の上ではモデラトーレと呼ぶ4、5人の司祭を任命し、宣教区の責任を負うこととします。そうするとモデラトーレは20数人でよく、他の司祭は各チームで話し合って行くことができます。
 そのメリットの1は;
 バランスのすぐれた主任司祭72、3人が現在必要ですが、そんなにいない。人事に苦労しています。問題が出ること覚悟で送ります。しかし、3分の1にすれば、20人くらいは管理能力の優れた人はいます。あとは部分にすぐれた人がいますので、そのタレントを生かせば良いのです。
 その2は;
 今の小教区では司祭が全部に対応しなければなりません。子供から結婚のこと、老人問題、一人では無理です。青少年活動にしても一人では出来ない、結局消滅します。継続するためにはチームことに当たれば良いのです。
 その3;
 聖堂を建設し、完成したら司祭はすぐ異動します。新しい人が適応すれば問題ないが、そうでないと司祭館について思わぬ注文が出て、信者とトラブルになることもある。
 小教区の建物は小教区が責任を持つが、その名義は東京教区であり、矛盾が生じます。全体で考えるシステムにすれば良いのです。もう一つ、任地の信者の数によって司祭の財政が公平でなくなっています。司祭は清貧の誓願はしていませんから、ある司祭が亡くなって、残された預金で教会が一つ出来た例さえあります。司祭の財政を平均化しようとしています。
 その4、;
 青少年に対応出来る司祭の数が足りません。青少年を小教区に縛り付けようとしても、そこに魅力がなければ人は集まりません。もう小数区制度ではどうにもならないのです。宣教区なら主任司祭が向いていなければ司教がやって少しずつでも青少年が集まる場を作って行ける。青少年はピンからキリまでいて、そのニーズは多様です。司祭がそれぞれのタレントを生かせます。しかし、今の緻密な司牧をなくしてはなりません。同時に信徒の力をつけて行きます。ドイツ、フランスを視察しましたが、3、4年かけて信徒を養成し、病人訪問、聖書講座を信徒がやってました。さらに、チームに女性を加えて意思決定するといった意識改革をしなければなりません。
 日本の教会は明治から1945年頃までは数字は横ばいでした。以後、1958年までは上昇傾向にありましたが、以後は減少しています。1970年代の創価学会、立正佼正会などの成長を見ても宗教ニーズはあります。では日本のカトリックは沈滞しているのでしょうか?とすればその原因は?
 信仰と生活の遊離、教会と社会の遊離を克服しなければなりません。このためには、どこか遠い所で作った信仰様式に合わせるのではなくしましょう。遠い所とは、神学院での若い頃からの純粋培養、ヨーロッパの様式ををそのまま持ち込んだことなどが挙げられましょう。
 これを解決するプランとしては
(1)司祭と信徒が一緒になって考える場を設けること。誰かが考えるのではなく、互いに分かち合うということです。
(2)次ぎに制度の見直しです。日本には16の教区がありますが、実際には38あることが分かりました。つまり教区は“なになに会”に委ねられていて、日本の教会はタコツボ型、分散型になっており、これが構造的欠陥です。一人の主任司祭に全権を渡していたのを改革しようとしているのです。 今、東京には90人の司祭がおられますが、20人は病気で、10人ほどは70歳台です。モデラトーレ制度によってフリーになった司祭がより活動できることになります。現に聖書展では小教区を超えての活動がありました。 明治以後の宣教師は外部と係のない、静かな場を造ろうとしました。近代社会を造った革命に否定的であり、社会に関心がありませんでした。これを変えなけれはなりません。
 教区の統廃合を否定的に捕らえてはなりません。これによって日本の社会がダイナミズムを取り戻すと考えてほしいと思います。          (文責 鈴木)



     大聖年のイタリア・フランス巡礼の旅
                                       井上 信一

 念願の巡礼の旅を11月6日(月)の朝、成田出発から始めました。嬉しさと期待と少々の不安を抱いての旅立ちでした。嬉しさと期待とは、もちろん、大聖年にサン・ピエトロを初めとする四つの聖なる扉のある大聖堂や、聖人・聖女のゆかりの地を訪ね、この50年に一回のお恵みに与るということです。そのために数々の企画を盛り込み、準備してもらった旅をスタートしたのです。それに、旅そのものの楽しさ、日常生活から開放された気分を味わうことでもありました。少々の不安とは、家を留守にして残す家族のことや、人それぞれの問題があったに違いないからです。
 詳しくは、この巡礼のレポートを兼ねたニューズ別冊で、参加した皆様の感想文を読
んでもらうことにし、ここでは、簡単に訪問地を紹介しておきます。
 まず、巡礼の旅をローマから始めました。バチカン美術館、サン・ピエトロ大聖堂、その他大聖年の三つの扉のある大聖堂、郊外のカタコンベ、それに市内の歴史的名所・旧跡を訪ねました。それから、ウンブリア平原を一望に見渡すアッシジに移り、聖フランチェスコと聖クララの信仰生活をたどりながら、3年前の大地震の傷跡が未だ残っている聖堂や修道院を訪ねました。経由地であるフィレンツェでは、美術館、サンマルコ寺院、歴史的建造物を少々急ぎ足で回りました。そして、パリ経由で、12日の日曜日の夕方にヴェズレ一に到着しました。ここのエルサレム修道会と多摩教会とは太い絆で結ばれています。すでに建設資金のために3回コンサートを開いてくださったブラザー・ダミアン原田、復活のイエス像と聖母のイコンをそれぞれ製作していただいたシスター・エゼキェルとシスター・内海郁子がこの修道会におられるのです。また、ヴェズレーの大聖堂は、スペインのサンチャゴ巡礼の出発点として、また十字軍派遣の基地として歴史的な役割を果たした場所です。また、ここに泊って、ブールジュ大聖堂(パリのノートルダムと並ぷゴチック様式教会の傑作)、ヌヴェールのサン・ダジール修道院(聖ベルナデットがルルドの後の人生を送ったところ)を訪れました。その後、パリに2泊して、ノートルダム他二 つの聖堂を訪れ、その間に、リジューの小さき花のテレジアの修道院まで出かけました。最後は、パリからTGV(新幹線)でルルドに行き、聖ベルナデットのゆかりの地を訪れ、聖水を飲んだり、凍てつく泉の水に浴した人もいます。18日の朝、ルルドの近くの都市ポーの空港から帰途につき、パリ経由で19日の朝成田に帰りました。
 この間、ほとんど毎日それぞれの地にふさわしい祭壇でミサに与ることができました。
 皆が心で感じたことを話し合う機会もありました。建設に数世紀を要した大聖堂や、美術史上の傑作である宗教的芸術品などに感嘆しましたが、何より心に深く残ったのは、聖パウロや聖ヨハネの殉教した薄暗い地下牢だったり、地下に追い込まれた信徒の造ったカタコンベだったのです。それは、単に書物で読んだ遠い歴史上の出来事として、頭の中で考えていたこの殉教や迫害のすごさを、昨日の出来事のようによみがえらせる何かがその場で感じられたからです。そして、パリのサン・ジェルヴェ教会で与った夕刻の平日のミサで、詩篇の歌に聞き入りながら、祭壇の近くに来て、ひれ伏して祈るパリの巷の人々の姿を見て、長年にわたる信仰の証を垣間見たような気がしました。平和の挨拶で、私たちにも両手を差し伸べて、握手してくれたことが忘れられません。
 この巡礼の旅が感動的なものになるよう、企画から実施まで誠心誠意、尽力してくださった神父様を初めとする多くの皆々様に感謝!感謝!
なお来月末発行の予定で、「巡礼ご報告特集号」を組みたいと思っております。


       五日市霊園墓地の祝別式に参加して
                                     鶴牧  中村 安男

 12月3日(日)の朝は、雲に覆われて師走の寒さが一段と厳しかった。しかし、正午すぎに、マイクロバスが五日市墓地に向かって出発する頃には、晴れ間から光が射して暖かさが戻ってきていた。
 正直なところ、墓石の発注に関わった私は、少なからず不安を感じていた。それは、共同墓地の加入者のみなさんに満足して頂けるかどうか。心がおだやかではなかった。ましてや、現地訪問が初めてだったから。
 教会を出発して小一時間、バスは鎌倉街道を抜け、奥多摩街道を過ぎ、新築の〔あきる野教会〕の十字架の塔が見えてきた。急な坂道の中腹で下車して、丘陵の段々墓地を眺め
ながら登っていくと、奥まった所に私たちの墓誌碑が南向きに建立されていた。
 間口4メートル、奥行き4メートル50の広い敷地は、御影石でいっぱいに敷き詰められて、落ちついた雰囲気を漂わしていた。地下の納骨堂は、6段の棚になっており250の骨壷が安置できるようになっていた。
 墓地はきれいに色づいた樹木に囲まれ、あたかも、手入れの行き届いた庭園を想わせる
静けさを保っていた。集まった30名ほどの人々の表情も穏やかに見えた。
 暫くして宮下神父様の祝別式が厳かに始められた。聖歌と祈りのうちに進行し、神父様
の話の中にモニュメントに刻まれた御言葉が偶然ではなく、導きによって選ばれたいきさ
つを知って、非常に感動させられた。
 『父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください』
(ヨハネ福音書17章24節)
参加者一同は、心より安堵の様子であった。そのあと、〔あきる野教会〕をたずねて新聖堂などの説明を色々と受けて帰路についた。期待以上の出来上がりだった墓石に安心して、バスのなかで私は、居眠りをするゆとりさえできていた。
 ご参加のみなさんお疲れさまでした。
  空室沢山有り。 1体15万円格安募集中
                                    以上

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