多摩カトリックニューズ表紙へ戻る

2010年1月号 No.437  2010.1.23

荒れ野で福音宣言
晴佐久 昌英 神父
白柳枢機卿様の思い出 北村 司郎
子供たちの聖劇 加藤 泰彦
コルベ会とはどんなグループでしょう! 井上 毬子

荒れ野で福音宣言

                          主任司祭 晴佐久 昌英

 多摩カトリックニューズにこうして巻頭言を書くことは主任司祭として当然の務めではありますが、わたしにとってはそれ以上の特別な意味があります。今号で第437号になるこのニューズですが、かつてわたしは、その第1号から117号までを一冊の本にする際の装丁を担当したのです。本文の活字組や扉のイラストから表紙の紙質までデザインし、117の巻頭言全てにカットを描き、そのためにすべての文章を何度も読んでは想を練ったものです。今から27年前、まだ神学生のころです。
 本のタイトルは「荒れ野から」。著者はいうまでもなく、初代主任司祭である寺西英夫神父であり、彼が司祭叙階銀祝記念として出版したものです。わたしが装丁を頼まれた理由は、以前美校で編集デザインを学んでいたということもありますが、何よりもわたしが多摩地区の教会の青年活動で寺西師の影響を受けて神学校に入った者であり、多摩教会にも深い関わりを持っていたからです。実際、この本の175ページには師とも親しかったわたしの父の死にあたって書いた詩が載っていますし、228ページには神学生であるわたしに言及した文章も出てきます。ともあれ、この本に出てくる出来事の数々はわたし自身も体験したことであるため、出来事の本質を見抜こうとする師の見方からは多くを学ばされました。多摩カトリックニューズの巻頭言は、召命を受ける前後のわたしにとって、荒れ野を旅する教会の本質を自らの出来事と重ねつつ学んでいく格好の教科書でもあったのです。

 かく言うわたしも銀祝が近づき、気付けば「荒れ野から」出版時の寺西師の歳になり、あろうことか多摩教会の主任として多摩カトリックニューズの巻頭言を書いているではありませんか。これが単なる偶然ではなく摂理であるのは当然のことで、神様が多摩教会をいっそう多摩教会にしていくために、なすべきことをなしておられるということではないでしょうか。つまりわたしは、聖堂がまだ関戸ビルの2DKだったころから足繁く出入りし、多摩教会という出来事の証し人とされ、教会の本質がなんであるかを目の当りにしてきたものとしてここへ遣わされてきたということです。
 「多摩教会をいっそう多摩教会にしていく」とは、荒れ野で旅する教会として聖堂も持たずに設立され、だからこそ教会の本質である「福音を信じ福音を宣言する集会」としての教会を目指して苦労を重ねてきたという、多摩教会の恵まれた特質を再確認して再出発するということです。
「荒れ野から」の37ページにはこうあります。「2DKの小さな家では、(略)ミサ以外の時に訪ねてきた人は『これが教会ですか』という顔をする。しかし、これこそ教会の『はだか』の姿なのである。教会とは『キリストを信じるわたしたち』のことであって、そのわたしたちは『キリストの証しされた神の国(神の愛がすべてにしみとおって実現する状態)の到来を、この世にあって受け継ぎ、伝えて行く弟子たちの集り』にほかならない。(略)わたしたちは信じているのである。キリストの証しが、はだかの十字架からの復活によって行われたことを。教会は、その証しを続けていくものであることを。いずれ多摩教会も、少しづつ着物を着ていくことであろう。しかし、常にはだかのキリストを忘れないでいたいと思う。」

 次々と着物を着て、多摩教会は今年献堂10周年を迎えました。いまこそ、なにもないところからすべてをお始めになる神のわざに信頼し、「はだかのキリスト」に立ち帰る節目です。働くのは神です。神が福音を語っているのだから、わたしたちも共に語るのです。どれほど建物が立派でも、福音を語る者が集うのでなければそこはキリストの教会ではありえません。師の言うとおり、「キリストを信じるわたしたち」として「神の国の到来をこの世で伝える弟子たちの集り」でなければなりません。
 岡田大司教様は、ことあるごとに「教会はオアシスであるべき」と語っています。多摩ニュータウンも30年前に比べればずいぶん立派になりましたが、その中身は当時よりいっそう荒れ野化しています。多摩教会こそはまさに旅するオアシスとなり、救いを求めて渇ききった人々に福音を飲ませる教会とならなければなりません。この一年、「荒れ野で福音宣言する集会」をめざしましょう。荒れ野の旅はまだ始まったばかりです。

白柳枢機卿様の思い出
                                北村 司郎
        
 昨年暮れ、白柳枢機卿様の訃報を一般紙で知りました。お身体の具合が悪いと聞いてはいたがやはりという感じでした。1月5日、葬儀に参加させて頂き、2000人超す各界からの人々の中で、私はこの数十年の間に枢機卿様から頂いた多摩教会への数々の出来事を思い起こしていました。
 白柳大司教様(当時)が初めてこのニュータウンを訪れたのは1971年12月26日のことでした。クリスマスの翌日、私たちここに住む信徒の希望を受け入れてくださり、諏訪の故八巻氏宅で1日遅れのクリスマスミサを司式してくださいました。故八巻氏がどのように交渉されたか定かではないが、まさか大司教様が来てくださるとは、という感じだったのを覚えています。それに4人の司祭もそこに参加されていたのでした。今から考えると驚愕以外の何物でもありません。司教様をこんなにも身近に感じたのは初めてのことでした。ミサ後、私の書いた拙文「多摩ニュータウンへの教会建設のお願い」をその場で読んでくださり、「教会は建物だけではありません。あなたたち2・3人と集まるところが教会です。」そんな意味のことを話され、月1回の司祭派遣を了承くださり、早い時期に主任司祭を決定することまで約束してくださいました。
 翌年3月、寺西神父様の初代主任司祭の発表があり、5月には聖堂も司祭館もない多摩教会が創立されました。教会といえば必ず土地があり、建物が建っている。そんなイメージを大司教様は覆してくださったのでした。教会の本質について身をもって私たちに示してくださったのでした。それがあの大司教による家庭ミサだった、と気付いたのは私にとってずっと後のことでした。
 1976年かおり保育園が現在の地に落成しますが、その前年、教区、宮崎カリタス会(当時)、教会の三者間の話し合いが大司教館で行われました。かおり保育園を教会がいかに使わせていただくかがテーマでした。その仲介を司教様が執ってくださったのです。かおりのシスターたちは本当に教会のために尽力してくださり、建物を開放してくださったのはこの話し合いの結果だった、と思っています。ちなみにその会合の前、司教様たちと夕食をともにしたのですが、鮎の塩焼きがテーブルにのったのを覚えています。
 1977年多摩教会はシャンボール聖蹟桜ケ丘の2室を購入し、そこに拠点を移すことになりますがその購入にあたり、購入代金3千万円のうち教区が1千万、教会が2千万を10年間で支払うというものでした。寺西神父様がどのように司教様と交渉なさったかわかりませんが、教会として初めて自分たちの建物を持つことに対して、大司教様は即断のかたちで許可なさったのではないかと思います。
 現在の土地を教区が購入し、多摩教会へ提供してくださったのは1992年のことでした。購入の交渉はバブルがはじける前で相当な金額であったのを覚えています。決して教区の財政が豊かではなかったと思いますが、多摩のために特別に配慮してくださったのではないかと思っています。
 故八巻氏がよく話されていましたが、私たちの教会はこれが欲しいと言うときには必ず与えられる。司祭を送ってください。建物が欲しい。土地が欲しい。みんな実現している。その裏で白柳枢機卿様の多摩教会に対しての特別のはからいを感じないわけにはいかない。
 白柳枢機卿様、本当に長い間ありがとうございました。

子供たちの聖劇

                                加藤 泰彦

 12月23日、今年も教会学校の子供たちの聖劇がおわりました。ここ数年は24日クリスマスのミサの前に行なわれていましたが、今年は23日に福音宣教のプロジェクト「祈りと聖劇の夕べ」の大きな柱の一つとして企画されました。
 10月末にやっと動き出すという例年よりも少し遅いスタートだったため、本番まで6回の稽古でゼロから仕上げなければならない焦りは、いつも杞憂に終わると分かっていても、スタッフたちにつきまといます。
 子供たちはといえば、いたってマイペース。このままで、今年はいったいまとまるのかどうか? スタッフのスリリングな体験は毎年のものです。そうこうしているうちに、あっと言う間に本番目前になります。さすがにこの頃になると、子供たちの目の輝きが変わります。舞台演出については、素人ばかりのスタッフたちは最終的にどのように仕上げるか、やっとイメージがかたまります。「とにかくシンプルに」。説明的な演出は省いて、子供たちの存在そのものを前面に!
 さて本番です。舞台衣装に身を包んで、全員舞台に整列すると、沢山の観衆や強いライトにも動じることなく、堂々と演じました。多少のミスにも、取り繕わないであっけらかんとした姿は、逆にほのぼのとした親しみを感じさせます。
 年末のNHK紅白で話題になった、イギリスのおばさん歌手スーザン・ボイルを生んだTVのコンテスト番組に、6歳の少女が出演したことがあります。大勢の聴衆と、審査委員の前で、アカペラで「虹のかなたに」(Somewhere over the rainbow)を静かに歌いました。前歯2本がまだ生えかわっていない少女が発した声は会場を魅了し、その歌声に感動した審査員が思わず涙を流し、イギリスで話題になりました。多摩の歌声もそれに負けないくらいの存在感がありました。まっすぐな歌声は心に沁みました。単旋律の歌なのに、子供たちの手にかかるとどんな作曲家も真似できない、絶妙のハーモニーも生み出しました。
 天使たちの声、マリアの声、ヨセフの声、羊飼いたちの声、ガブリエルの声、そして、福音書記者の声。いろんな声が混じりあいながら、福音のメッセージを聖堂いっぱいに響かせました。無事に終わって、大きな拍手に送られながら、中央通路を退場するかれらの、ちょっと恥ずかしそうな、そしてとっても誇らしげな顔を見ていると、また来年も!というエネルギーが沸いてきます。

コルベ会とはどんなグループでしょう!

                                井上 毬子

 「コルベ会ってどういう会なの?」ご存じない方も多くおられることと思います。どのように始まったか、どんなことをしているのか、簡単にお伝えしようと思います。もし私も参加してみたいと思われる方があれば何時でも大歓迎です。どうぞ時間の許す範囲でもいいですのでご参加下さい。
 今から35年以上も前に多摩教会は聖蹟桜ケ丘の駅前にある小さな関戸ビルの2Kアパートにありました。そこが手狭になったので、シャンボール・マンションを2戸分購入して、移ったのは良かったのですが、信徒は自分たちの家のローン返済以外に、教会のローンの返済もしなければならなくなりました。そんな中で自然とボランティア・グループができ、お中元やお歳暮の時期に贈答用のケーキやクッキーを売ったり、ミニバザーをしたりして、資金を集める活動を始めました。それがコルベ会の始まりです。またその頃は教会に福祉部などもなかったので、病者訪問や高齢者の手伝い、また災害時の募金活動なども併せて行うことになりました。
 何年かするうちにシャンボール・マンションも狭<なり、「旅する教会」と称していた多摩教会も安住の地が欲しいという要望が信徒の間で高まりました。そこで先日帰天された白柳枢機卿様にお願いして、聖ケ丘に土地を買っていただき、初めは今の信徒館だけを建て、そこを仮聖堂として使っておりました。
 そして今から10年前やっと今の聖堂ができたわけです。しかし、またもや莫大な借金をすることになりました。私たちのグループも今まで以上に力を合わせて、、新しくできた台所でケーキを焼いたり、甘夏ビールやマーマレード作ったりして、信徒の皆さんに買っていただき、個人の建設資金返済とは別に資金集めに協力いたしました。同時に病者や高齢者の訪問に関わりを持って、福祉面での奉仕をすると共に、阪神大震災や新潟大震災の際には、援助金の募金活動にも尽力しました。
 そんな中で教会外との関わりのためにもグループの名前が必要になり、教会の守護の聖人コルベ神父様のお名前を頂き、コルベ会と称することにしました。
 昨年ついに聖堂建設の惜金も完済することができ、私たちは体力の限界を感じています。また、病者訪問テームや常設の売店もでき、何か燃え尽き症候群に陥ってしまいました。ところが、1月の例会で神父様のお話に励まされ、今までのコルベ会のノウハウを若いひとたちに伝えることも必要だと考えるようになりました。そのため出来る範囲内でいま暫ら<、この奉仕活動を続けて行きたいと思っています。
 何か自分も教会のためにしたいと思われる方、都合のつ<時だけで結構ですので、是非私たちの集まりにご参加下さい。例会は奇数月の第二火曜日、1時からです。地区とは関係なく色々な方とお知り合いになれ、ケーキやマーマレード作りを楽しめますよ。お待ちしております。

多摩カトリックニューズ表紙へ戻る