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2001年4月号 No.332  2001.4.21

御復活おめでとうございます 宮下 良平神父
新聖堂で初のご復活 八巻 信生 他
復活の聖なる徹夜祭 吉 田 雨衣夫 

  御復活おめでとうございます。
                                     宮下 良平神父

 御復活おめでとうございます。 本聖堂ができて初めての聖週間、そして御復活の主日を迎えました。
 聖木・聖金曜日は120〜140名くらい、復活徹夜祭には200〜230名の方が典礼にあずかりました。そして、復活の主日には350人以上の方がミサに来られました。
 驚きでした。ホステアを何十枚もあらかじめ用意していたのですが、予想を超えるほどの多さに、ついには小さなご聖体を4分割して拝領していただきました。
 昨年の献堂式以来、多くの信徒が来られました。多分、昨年のクリスマスより多かったかもしれません。多摩教会の信徒の半数がこの聖堂でミサを一緒に捧げるということは実にうれしいことです。
 ところで、復活の主日のミサで説教したことから書かせていただきます。なお、あとで説教に使わせていただいたナウエン神父著「この杯が飲めますか」(聖公会出版)の抜粋を載せますのでお読みください。

 私たちは次の大切な三つの単語と、そこから流れ出てくる“呼ぼれていること”に気づかせていただく人生へ招かれています。

『沈黙』⇒『祈り』へ呼ばれていることへ

『言葉』⇒『交わり』へ呼ばれていることへ

『行い』⇒『何をするために』呼ばれているかと問われていることへ

 沈黙は、いわば娯楽や気晴らしの中断です。それは時として、孤独・病気・災難・不幸・絶望のなかで体験するかもしれません。だからこそ、沈黙を恐れ、娯楽へと再び逃げ込もうとする衝動を私たちは強く感じます。ナウエン神父は言います。「『怖れることはない。自分の旅路に横たわる暗い面も明るい面も直視し、自由への道を見つけることが出来るのです』という囁きが聞こえてきます。…
 でも、もし、じっとこらえてその暗闇の声に脅かされず、そこに留まるだけの自制心があるならば、闇からの声は段々力を弱め、その代わりに、光から来る優しい、柔らかい声を聞き取る余裕が生まれます。これらの声は、平和、親切、優しさ、善意、喜び、希望、赦し、そして何にも増して、愛を語るのです」と。

 ナウエン神父は言います。「自分にしかたどれない生き方を完全に認め、自己認識を得るためには、ありのままの自分を他人に知られる必要があります。語り合うこともなく、沈黙だけに留まることは、共同体との関わりを持たない孤独と、同じくらい危険性を含んでいます。語ることも、沈黙することも、両方とも大切なのです」と。
 ナウエン神父は言います。「自分のなすべきこと、したいことを区別するのは易しいことではなりません。…オフイスで働こうが、旅をしていようが、貧しい人たちのために働いていようが、地位のある役職に就いていようが、目立たない仕事に没頭していようが、問題は『何を一番したいか』ではなく、『何をするために呼ばれているか』ということなのです」と。
 そしてナウエン神父こう言います。
「神は常に限界を超えた行為を望まれず、ものごとを、よく果たすことを望まれるのです。沈黙の内に神の声を聞き、信頼できる友と語るならば、何をなすべきかが分かり、感謝を持って行動することが出来るでしょう」と。

 私たちはイエス・キリストの過越の神秘を全世界の人々と一緒に体験しました。
 それは十字架によって示される完全なる「沈黙」の祈り、弟子たちと交わした最後の晩餐の「ことば」による真の交わりの実現、そして十字架と復活という「行い」を通して示された神の愛の完全なる実行でした。
 私たちは主イエス・キリストの復活を単なる毎年訪れる年中行事に留まらない、私たちの日々の新しい生き方への出発の時としたいものです。

                     神に感謝

         新聖堂で初のご復活
 我々多摩の小教区は今年、新聖堂で初のご復活をお祝いしました。15日、復活主日は宮下神父様、松村神父様、ピーノ神父様の共同司式のミサに350人を超える人が与かりました。続いて開かれたパーティには恐らく大部分の人が参加したのでしょう、信徒館1階のホールはテーブル間の移動も困難なほどの混雑で、歓談は正午過ぎまで続きました。
 また、14日、復活徹夜祭では二人の赤ちゃんが幼児洗礼を受けました。

                                    諏訪・永山 八巻 信生

 1971年(昭和46年)12月26日、わが家で白柳大司教様による多摩ニュータウンで初めての「クリスマスミサ」が捧げられてから30年(翌1972年5月22日、多摩教会が正式に「小教区」として認可されてから満29年)を迎えます。
  4月15日、新しい多摩教会の聖堂で初めて「復活祭」のミサが捧げられました。振り返ってみると、聖堂建設など殆ど“ゆめ”に近かった頃は、「主の聖名によって人々が集まる所が教会である」とし、「旅する教会」をモットーに多摩市内の一戸建ての一室(一の宮)一マンション(東寺方)一マンション(関戸・シャンポール聖蹟桜ヶ丘)一信徒館(聖が丘)と旅を続けてきました。
  大きな感動に包まれて、新聖堂での初めての復活祭のミサに与かりました。そして「聖堂が無くても教会だから」と割り切り「教会の旅」を続けながらも、心密かに「丘の上に燦々と輝く十字架、白いチャペル」の教会を夢見ていた30年を思いました。


                                   諏訪・永山 沢江 秀美

 皆で力を合わせて形になった聖堂でのご復活、とても清々しい気持ちでお迎えすることが出来ました。また二人の赤ちゃんが洗礼を請けられたのも印象的で、新たな気持ちになりました。


                                   貝取・豊ヶ丘 工藤 扶磨子

 聖木曜日、神父様から足を洗って頂き、有り難く受け止めました。ご復活の日は神様から支えられているのは私であると感じられたのはお恵みであり、幸いでした。新聖堂でのご復活は意義深いものでした。



                                     諏訪・永山 木村 正哉

 生活の中に信仰があるのではなく、信仰の中の一部に生活がありますように、少しでも神に近付きたいと祈りました。新聖堂での聖週間は非常に気持ちが救われました。



                                        桜ケ丘 竹内 秀弥

毎年何らかのかたちで、典礼に参加しているが、大体同じことなのに何回やってもスムーズにいかず、練習の足りなさや機転の利かないことを実感する。今回は特に新聖堂での初めての典礼なので、直前のリハーサルに、もっと力を入れるべきだったと反省している。


         復活の聖なる徹夜祭

                                           吉 田 雨衣夫

3人の司祭を従えて復活のローソクがゆっくりと祭壇正面の通路を進むとその周りに点々と光の輸が広がる。

「キリストの光」「神に感謝」。応答がおごそかに繰り返される。司祭団が祭壇に着くと高々と復活賛歌が歌われてミサは静かに盛り上がって行く・・・

今年の聖週間は仕事に追われて聖土曜日しか教会に来ることができませんでした。
(神様、ごめん。)
新しい聖堂で迎える新世紀の御復活はかなり感動的であったと思います。でも昔に較べると参会者が年々減少傾向にあるのではないでしょうか。
来年は聖土曜日も聖堂が満員になる様になるといいですね。
神様、よろしくお願いします。



                                        南大沢 加藤 泰彦

 聖週間の典礼は、光と闇の典礼です。この対比の中に込められたメッセージがひときわ輝く瞬間です。新聖堂での聖週間の典礼に参加しながら、数十年も前の聖週間のことが蘇ってきました。聖木曜日の12人がずらりと並んだ洗足式、聖金曜日にはオルガンの伴奏もなくなり、カスタネットの乾いた響きがのみが聖堂に残る。聖土曜日は闇の中に、復活のロウソクが進む。いくつもの聖書の箇所がラテン語で延々と歌われる。闇の中のロウソクの光と、ラテン語の歌と、焚き込められた香とがつくる、特別な場の中に小学生の侍者として眠い目をこすりながら立っていたことを。今年もまた聖週間を迎え、あらためてこの典礼の持っている伝統に培われたすごさを感じさせられました。

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