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2011年1月号 No.449  2011.1.22

小さな天国
晴佐久 昌英 神父
冥土の旅の一里塚 吉田 雨衣夫

小さな天国

                                       主任司祭 晴佐久昌英

 小学校5年の春、「2001年宇宙の旅」というSF映画が封切られ、クラスの友達と一緒に今はなき銀座のテアトル東京へ観に行きました。そのときの映像体験はその後の映画人生の原体験ともなる強烈なものでしたが、そのときの音楽体験もまた、その後のクラシック人生の原体験になりました。太陽と地球と月が一直線に並んだ瞬間に大音量で鳴り響くリヒャルトシュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りき」や、宇宙船が優雅に航行するバックに流れるヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」は、若干10歳の魂に、どこか神話的な感動や官能的な喜びを呼び覚まし、それはある種の神秘体験でもあったのです。
 以来、クラシック音楽を聴くことはわたしにとってどこか神聖で特別な行為となりました。同じ年、音楽の時間に音楽室の大きなスピーカーでチャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」を聞いたときのあの言葉にならない感覚は、胸の奥の「きゅっ」とするところに今でもそのときのまま残っています。ああ、こうして書いていても鳴り出す、「花のワルツ」のハープのカデンツァ!

 若いころはレコードやラジオで聞いていたクラシック音楽でしたが、経験を積んでくるとさすがにナマのよさが分かってきて、次第にコンサート会場に足を運ぶことが多くなりました。自然とクラシック関係の友人も増え、知識も体験も積み重なり、かつての映画評論家が今ではすっかりクラシック評論家です。
 チケット代が高いのは難点ですが、ナマのクラシック音楽にはそれだけの価値があるのは事実です。様々な奇跡が絶妙に響き合って不意に訪れるあの幸福な一瞬はもはや小さな天国であり、どんな疲労も苦労も吹き飛ばす力を持っています。一番よく聴くのはピアノですが、お気に入りはピレシュ、ポリーニ、エマール、アンデルシェフスキ、ツィメルマン、ランランといったところです。彼らの研ぎ澄まされた演奏を聴いていると心が澄みわたっていくのを感じます。さらに最近はまっているのはオペラで、ランカトーレのルチアや、フリットリのボエーム、デセイの椿姫などなど、名だたる歌姫たちからどんなにパワーを分けてもらったことでしょう。

 さて、そんなこんなでナマの値打ちがわかってくるとさらに欲が出て、ついにはここ数年、クラシックコンサートの製作に手を染めはじめました。ただ受動的に聴きに行くのではなく、自ら小さな天国を作り出してしまおうというわけです。これが始めてみると中々奥が深く、困難も多いけれど実りの喜びも多いため、やめられなくなってしまいました。主に大好きなピアノと歌のコンサートです。今まで、お気に入りのフィリアホール、王子ホール、トッパンホールなどで開催してきましたが、ついにこのたび、憧れの紀尾井ホールで開催する運びになりました。
タイトルは「第5回佐藤文雄と愉快な歌姫(なかま)たち」で、天才伴奏ピアニスト佐藤文雄と彼を尊敬する歌い手たちによる至福のひと時です。佐藤文雄はわたしが洗礼を授けた大切な友人であり、今回歌うソプラノの澤江衣里は高幡教会所属で、わたしは彼女が高校生のころから見守ってきました。このたび彼女が日本音楽コンクールで若くして二位になり、テレビでも紹介され、お祝いもかねてのコンサートとなりました。コンクールの本選を聞きに行きましたが、年々成長しているとはいえここまでかと心底驚かされましたし、これからの日本の音楽界を代表する歌い手になっていくことでしょう。ともかく、そのまろやかな声のツヤは比類ありません。聴いていただければわかります。
 また、同じくそのコンクールで前回二位だった首藤玲奈が出演してくれることになり、最強のラインナップとなりました。先日、アーノンクール指揮のウィーン・コンチェントゥス・ムジクスでバッハのロ短調ミサを聴き、これぞ信仰の極みの音楽と感銘受けましたが、このたびのコンサートではこのロ短調ミサから「キリスト憐れみ給え」のソプラノ二重唱を二人に歌ってもらいます。おそらく、今回の企画ならばクラシック通の人たちも聞きに来るのではないでしょうか。こうして、自分の好きな音楽を好きな演奏家に演奏してもらい、みんなに小さな天国を味わってもらうひと時こそは、コンサート製作の醍醐味です。つらいことの多い現実の中で、ほんのひと時でも天国の扉を開けて励ますことができるならば言うことありません。恒例の、神父の福音宣言タイムもあります。ぜひ、お友達を誘って聴きにいらしてください。
3月8日(火)19時、紀尾井ホール。前売り3500円。教会ショップアンジェラで扱っています。

冥途の旅の一里塚

                                      豊ヶ丘 吉田 雨衣夫

 ここ数年は季節の変わり目になると身近な方々の訃報が増えてきました。
 昨年末には大学で建築の何であるかを教えて下さった恩師が逝去されました。一昨年は私に音楽を教えて下さった神父様が亡くなられました。
 訃報の主は数十年来の親友であり、先輩であり、後輩であり、敬愛する恩師であり、面倒を見て下さった会社の上司であり、競い合った同僚でありとこれまで
自分の人生の色々な場面で出会い、ご親交を頂いた方達です

 今回年賀状を書くときに何気なく住所録を数えてみると、三年で14名が抹消されていました。ついつい「自分の番は何時かな」と考えてしまいました。
 思えば自分も今年は2回目の停年を迎えます。学校を出てから42年、この年月が長かったのか、短かったのかはよく判りません。でも少し疲れてきました。
最近は訃報に接する度に自分の人生が鉛筆を削るように少しづつ削り取られてゆくような気がします。
 ”正月は冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし”

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