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2005年1月号 No.377  2005.1.22

「仁」 加藤 豊神父
2 クリスマスコンサートに参加して ウェケ暁子
3 絵画「ザカリヤの家」について 車 貞ミン
4 聖劇「マグニフィカト」の照明を担当して 下津秀則

「仁」
                              加藤 豐神父

 皆さん、あけましておめでとうございます。この場をお借りして新年のご挨拶をさせていただきます。昨年度中お世話になりましたお礼と共に、今年もよろしくお願いしたい旨、慎んで申し上げます。
 さて、「一年の計は元旦にあり」といわれます。わたしも小学生の頃には、冬休みの宿題で「書初め」をしましたが、今のわたしにとって、年の初めのニューズ巻頭言は、いわばかつての「書初め」の如きです。
 そこで、どのようなタイトルにしようかと、あれこれ思い巡らしてはいたものの、
結局、「仁」にしようと思い立ちました。 ご存じの方も多いと思いますが、論語にこんな一節があります。孔子さまに向かって弟子の一人が訪ねて曰く、「先生がいっている『仁』というのは、早い話しがどういうものですか?」。するとそれに対して師宣わく「人を愛することだろうね」と答えます。また別のところで師宣わく「仁は遠ところにあるのではない。誰でも望むならすぐそばにも見いだせる」とも述べています。
 この「仁」という漢字は、「人」と「二」とに分解できるので、うかつに「二人」に由来する文字と推測してしまうわけですが、むしろ、上記の孔子さまの解釈に基づけば、どうやら「一人ではない」ということに重点が置かれているようです。論語において語られる「仁」の教えは、それを求める人をして決して孤独に陥らせることはないという明るさを放っています。
 意外と忘れられていることですが、わたしたちの救いは、決して一人で完成するものではありません。それは常に「キリストと共に、キリストの名のもとに集う共同体において」、日々、成されつつあるものであります。もし仮に、パウロが当時「仁」という漢字を知っていたなら、必ずや彼は書簡にこれを多用し、更に「霊の結ぶ実」のひとつに数えていたことでありましょう。
 イエスはおっしゃいます。「わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。」(ヨハネ16:32b)、「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:21b)。そうです。イエスは常に「一人ではない」お方であり、「望むならすぐそばにも見いだせる」お方として信じる者たちの間に現存なさるのですから、イエスの存在そのものがまさに「仁」の原型、あるいは、その体現です。実に東洋にも聖霊の働きが満ち満ちていたことに、あらためて気づかされるのであります。
 年の初めに、是非この「仁」の一字をテーマに黙想してみてはいかがでしょうか?
 

クリスマスコンサートに参加して

                                     ウェケ暁子   

 多摩教会のクリスマスコンサートは現在の聖堂ができる前から行われている、と伺っています。これまで続いてきたというのは長い間の教会のみなさま方の協力と努力の結果でありましょうから、そこへ今回加えていただいたことにまず感謝申し上げます。
 今回参加したことにより、教会のいろいろな方と関わり合えたことはとても得がたい経験でした。また教会のメンバーがそれぞれのタレントを活かしてコンサートを作り上げているということ、また、それを可能とさせる教会の開かれた雰囲気そして目立たない働きをしてくださる方々への感謝等、いろいろなことに気付くことができました。またコンサート後も、たくさんの方から暖かい励ましのお言葉をかけていただいたこと等、大きな恵みをいただいたと思います。
 コンサート後、教会学校の子供たちやそのほか出演者、スタッフの方々との打ち上げの場で加藤神父様が教会学校の子供たちに次のようにお話されました。「時計が正確に動くのは、表側を見ただけでは知ることのできない複雑な働きが裏側で行われているから。今回のコンサートが無事に行われたのも、たくさんの方々の協力により行われたのだから、そのことに気付いて感謝しましょう。」そんな内容だったと思うのですが、このことはコンサートに限らず、教会で行われるすべての事柄に言えることだと思います。今回のコンサートは活き活きと生きる教会の一部に自分がなれた、と感じられた有意義な時間でした。今後も、時計の表、裏両方の役割を時に応じて果たしていけたら、と思います。


絵画「ザカリヤの家」について

                                 車 貞ミン(ドロテア)

 絵画「ザカリヤの家」は、絵画にもかかわらずデザイン的要素を加えなければなりませんでした。なぜならば、「聖劇のために」という目的があったからです。逆に言うと、「聖劇のために」という目的があった「ザカリヤの家」には、絵画的要素を加えなければなりませんでした。なぜならば、そのことによって、聖劇「マグニフィカト」がより感動的場面を与えてくれることを信じたからです。何が絵画的要素で、何がデザイン的要素なのでしょう。私なりには、絵画的要素というのは制作者の精神が込められていることであり、デザイン的要素というのは商品性あるいは目的性を念頭にしたことです。
 絵画「ザカリヤの家」は、絵画的要素とデザイン的要素が適切にバランスよく取れることを目標にしました。まず、絵画的要素に関する情報を得るために聖劇「マグニフィカト」の背景になる聖書(ルカ福音書1:5〜80)を読みました。何回も読んでいるうちに、あるイメージが浮かび上がってきました。それは、暖かさと喜び、そして、華麗すぎず地味すぎない程度の家具と雰囲気でした。しかし、1ヶ月の間、筆を持つことができず、ただ、部分のイメージと全体のイメージだけを考え続けました。全体のイメージが完了したと感じたある日(聖劇の総リハーサルの4日前)、キャンバスに描き始めました。この時からはデザイン的要素やテクニックに力を入れました。暖かさの象徴として壁暖炉と天井のランプを、喜びの象徴として黄色と薄いピンクバラのを、さらに舞台の奥行きのために線遠近法を、主な表現要素として取り入れました。
 実は絵画「ザカリヤの家」は、個人的に10年ぶりの作品となりました。キャンバスで仕上げる4日間は、自分一人ではなく神様と一緒であることが感じられました。絵を描く喜びを久しぶりに味わう機会をいただき、多摩教会の加藤神父様をはじめ聖劇「マグニフィカト」のスタッフの皆様に心からの感謝を申し上げます。


聖劇「マグニフィカト」の照明を担当して

                                   ヨセフ 下津秀則

 昨年の聖劇は、12月23日にビオラ、コントラバス、チェンバロの演奏の後、開かれました。加藤さんと柴田さんの演出と小俣さんの音楽、ウェケさんのマリア、藤本さんのエリザベト、川原君のザカリアと華麗な歌声が聖堂に響きました。もちろん教会学校の子どもたちすばらしい熱唱が会ったことを忘れることはできません。
 この聖劇の裏方として、美術、衣装、歌唱指導等で、教会学校の父兄が活躍しました。そして私は、照明を担当しました。照明は舞台周りの照明係として、高橋さんと李さんが、川久保さんと私がスポットライトとして両側から担当しました。スポットライトは、高橋さんが大学から借りてこられたもので、天使ガブリエルが登場するシーンや、最後に全員が観客に向かってあいさつする場面で用いました。左右のスポットライトを同時に消灯するタイミングが難しく、台本を大きく振って合図を送り、ピッタリとしたタイミングで消灯できました。
 聖劇が終わった後、教会学校の父兄に準備していただいたクリスマスパーティが信徒会館で開かれ、子ども達は、プレゼントももらって嬉しそうでした。
このように、聖劇は、出演者だけではなく、教会学校の父兄を中心として、数多くの人たちに支えられて、成功裏に終わることができました。客席で、拍手をして下さった観客の皆様にもこの場を借りてお礼申し上げたいと思います。

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