2004年度ニューズ表紙へ戻る

2005年8月号 No.384  2005.8.20

「共感能力」 加藤 豊神父
2 堅信を受けてあらためて思うこと 郡司 真理子
3 教会学校の合宿に参加して 塚本 清
4 かおり保育園のボランティアを終えて 手塚 薫
5 かおり保育園ボランティア 郡司 あずさ
6 かおり保育園でのボランティア 福西 祐太
7 かおり保育園でのボランティア 岡田 茉里奈
8 ボランティアをして気づいたこと 宿里 広太郎

「共感能力」

                                 加藤 豊神父

 「毎日、暑いですね」、「はい、本当に」。こうした何気ない会話の中にも、実は人と人との大切なコミュニケーションが展開していると思います。
 しかし、もし仮に、「毎日、暑いですね」と声をかけた相手から、「そんなこといわれても、わたしのせいじゃありませんよ」という返事が返ってきたとしたら、あるいは、「いい天気ですね」、と声をかけた相手から、「みりゃぁ分かるよ!」という返事が返ってきたとしたら、その瞬間、皆さんはいったいどうお感じになりますでしょうか?(いえ、あえて訊くまでもないことかもしれません)。
 開かれた心に「グサッ!」と突き刺さる言葉のナイフ、垣根なしの「おちょくり」や「からかい」。もちろん世の中にはそれらをも包含し、ブラックユーモアを約束事のように交わし合う人間関係もありますが、しかし、それはお互いよほど親しい仲でない限りあり得ないことでしょう。
 「毎日、暑いですね」、「はい、本当に」。こうした「やりとり」は、両者相互に共感したいという友好的な心構えを無意識のうちに前提としているものであり、その意味でいわゆる「社交辞令」のような儀礼習慣的な挨拶も、用い方次第では、空虚なコミュニケーションで終わることなく、共感の為の必須要素とさえなり得るものです。
 こんにち、「誰もわたしの気持ちを解ってくれない(くれようとしない)」との嘆きが増えている(現代人の孤独がいや増している)と思しき現状は、裏返しに見れば、「(その)わたしは誰の気持ちをも解ろうとしない(しようとしない)」という病に浸食されつつある現状といえるのではないでしょうか?(逆説的ですが)
 人間が孤独から癒されるためには、他者から「理解されること」だけでなく、他者を「理解すること」が、いえ、むしろそれこそが重要なポイントとなると思います。かつてアッシジの聖フランシスコが「理解されることよりも、理解することを望ませてください」と祈ったその言葉にそれは象徴されていると思います。彼は宗教がもたらす心の癒しというものが、エゴイズムからの解放によってようやく可能になることを、かなり鋭く見抜いていたのでしょう。
 さて、では、ただただ無条件に共感していればそれでいいのか? というと、あまりにも「ものわかり」が良過ぎて、悪事にまでも共感し、みずから進んで悪事に加担するようなことになっては大変です。それはまた自己理解の欠落という別の病の徴候だからです。
 わたしたちはバランスのとれた「共感能力」を養うために、先ず「互いに祈り合う」ことの大切さを事ある毎に思い起こし、いつもそこから始めたいと思うのです。



堅信を受けてあらためて思うこと

                          マリア・テレジア 郡司 真理子

主の平和
朝、昼、夜、ずっと昔から、くり返されて今日も、明日も朝を迎える。
作り手は神様。
主イエスの祈りを教えてくれた日から、跡切れることなく続いてきた。
次から次へと誰かが朝を迎え、祈り、ミサを全ての国で、神様と手をつなぐ・・・
朝も昼も夜も、必ず、誰かが、私たちの為に、私たちが誰かの為に。
孤独の海は冷たいし、苦しいことや悲しいこと、それぞれの思いの中に沈む日も、
必ず地上の何処かでは、祈りを捧げる人がある。
たった一人の祈りも、皆での祈りも、祈りによって主と結ばれる時、祈りの、私たちの内側から主は、
すべての人を愛される。
祈ることを与えられたことは、なんて、途方もなくすばらしいことでしょう。
私に祈りの中に、あなたがいる。
私の信仰は、と訊かれたら、私の渇きが、神様の渇きと知り、歩きつづけ、
その為に生かされること、むずかしく考えないで。
聖体拝領も、秘跡も、分け隔てなく形を示して、主と出遭える瞬間だから、「私だけの主」であり、
「私だけのおまえなのだ」と信じることの互いのきずなだと思う。
そして、それは、神がお選びになった聖なる器として、砂漠に於いて、星を見つめ続ける為におかれた神父様方によって、与えられていく時であるはず、そこに祈りがある。そこにいるだけですでに祈りなのです。私たちが主との近さを知り、清い水に足を入れることが、できるのですから・・・
そのことも、いつでも思いめぐらさなければなりません。
主をお招きし、主の内に溶けてひとつになれますように。
そのお恵みが地上の隅々にまで、沁みとおっていきますように。
私たちが目を閉じているあいだも、祈り続けていてくれる全ての霊のために祈ります。
主とともに。
イエスの愛のみが、すべてにおいて、すべてとなりますように。この世のことでなく、
たえず上のことを求めさせてください。(友の祈りより)
                                               主に賛美



教会学校の合宿に参加して

                                   塚本 清

 今年の教会学校の小学生の夏期合宿は、7月26日から28日までを予定していましたが、初日に台風が来たため出発を27日に変更し、1泊2日で行われました。参加者は部分参加の人も含めて、小学生12名と大人6名でした。
 27日は、午前中に教会に集合して、聖堂でお祈りをしてから宿泊先の高尾の森わくわくビレッジに向けて出発しました。わくわくビレッジでは、その日の昼食のお弁当とお茶をいただいて、そのあとバスと電車、ケーブルカーを乗り継いで高尾山に行きました。昼食のあとは、さる園・野草園に行きました。それから、わくわくビレッジに戻って部屋に入り、遊んだりお風呂に入ったりしました。このわくわくビレッジは、廃校になった高校の内装を変えてできた宿泊施設で、とても広いところでした。それから夕食をとり、その後に7月の子どもミサの分担を決めて、動きの練習をしました。そのあとみんなでゲームをしましたが、今回は時間がとても短かったです。
 28日は、朝食のあとわくわくビレッジを出発して、八王子教会に行ってミサをしました。多摩教会と違って、信徒の席にひざまずく台があったり、御心のイエスの像があったりしました。ミサの中で、この合宿で得たものを各自で神様にささげました。そのあとお昼前に教会に戻ってきました。
 今回の合宿では、台風のため日程が短くなってしまいましたが、そのぶん中身が濃かったような気がします。みんなで一緒に遊んだり、食事をしたり、お風呂に入ったり、ミサに参加したりすることで仲良くなって、9月からの教会学校がより楽しいものになるとよいと思います。
 今回も教会学校の合宿に多くの方々のご協力をいただきました。本当にありがとうございました。



 かおり保育園のボランティアを終えて

                                 手塚 薫
 
 かおり保育園はシスター久野がいらしたところだ。保育園のボランティアは絶対頑張ろうと、思った。ところが、当日朝、道に迷って遅刻してしまった。受付で聞くと、シスターが「手塚くんでしょ。宿里さんと、ふじぐみをお願いね」と、優しい声で答えてくださった。
 ここから、ぼくと3歳児のこどもたちの時間が始まった。ふじぐみの教室に入るとさっそくこどもたちがたくさん僕のところに集まった。みんな僕にいろいろ聞いてきた。
 水遊びでは、さんざんお水を掛けられて、びしょびしょになってしまった。カキ氷をみんなでたべた。とっても美味しかった。お昼寝をして何時間はヨーヨーつくりを手伝った。
 長時間こどもたちの面倒をみるのは、思った以上に大変だった。でも、とてもこどもたちがかわいかったので、ボランティアをやってよかった。いい経験になった。

かおり保育園ボランティア

                                郡司 あずさ

たんぽぽ組は、1才児のかわいいよちよちメンバーでした。
散歩や食事の世話をしました。 どれも初体験でしたが保母さんが親切で気持ちよくできました。
予想外だったのは、おひるねでなかなかねてくれない事でした。

かおり保育園でのボランティア

                                 福西 祐太

 今回がかおり保育園ボランティア初体験となった私は、月並みな言葉だが、本当に不安で胸がつまるようだった。中高生会の仲間達からの第一印象で、「こわそう…。」が大部分を占めていた私に、果たして純情な心を持つ子供達が心を許してくれるのだろうか…。そんな、まさしくスケールの低そうな人間が考えるような不安を抱きながら、私は決戦の地(かおり保育園園庭)に降り立った。瞬間、私は自分の中での考えを改める事になる。…そう、何人もの子供達が私に話しかけてくれ、更には私の取り合いになるという、天国にいるかのような状況になったのだ。この時の私の嬉しさを表現しろと言われたら、恐らく400字詰めの原稿用紙が3枚あっても足りないくらいだろう。それ程、「ゆり組さん」の子供達は光り輝き、私の心のストライクゾーンに飛び込んできたのだ。
 いろいろな体験を子供達とともに終え、そしてボランティアの終了が刻々と迫ってくるにつれ、子供達のかわいさ、そして芯の強さを再認識して、冗談ではなく泣きそうになってしまった、いや、心の中では実際に泣いていた。私がその昔、初めて「フランダースの犬」を見て泣いた時よりも確実に泣いていた。しかし、子供達の前でそんな情けない姿を見せるわけにはいかない。私は耐えた。その夜1人で枕を濡らそうと決心し、私は耐え抜いた。…みんな、楽しい想い出をありがとう。
 今回のボランティア体験を通じて、本当に良い人生経験ができたと思う。毎日を何気なく生きている私にとって、それはもう刺激的な経験だった。そして絶対に忘れられない経験になったのは言うまでもない。私はあと1年をドバイで過ごさなくてはならない。更に、受験という目を覆いたくなるような強敵が間近に迫っているのだが、ゆり組の子供達との想い出を励みにして頑張っていきたいと思う。そして、来年以降も機会があればかおり保育園でのボランティアをやらせてもらいたいと今強く思っている。
 最後に、今回お世話になったかおり保育園のスタッフの方々にもう一度お礼を言いたい。本当にありがとうございました。 

かおり保育園でのボランティア

                               中3 岡田 茉里奈

  私は今年中高生会がやるボランティアの日と都合が合わなかったので、別の日に3日間ボンティアをしました。宿里さんが「この前いったボランティア好評だったよ!!」と中高生会のみんなに報告していたので、「中高生会の一人として恥のないように頑張らなくちゃ!!」と強い気持ちでボランティアに臨みました。
 1日目は2歳児、2.3日目は5歳児でした。2歳児の子達は去年ボランティアした子達でした。部屋に案内されて、部屋で遊んでいる子を見た時、みんなお兄さん、お姉さんになっていて、その姿を見ただけで気持ちがとても明るくなりました。遊んでている時も1歳の頃とはやはり違い色々工夫しながら遊んでいました。お昼寝の時間。1歳のときは自分で着替えができない子がほとんどだったのに、ほとんどの子が自分で着替えができていました。トントンと寝かしつけてる時、子供たちの寝顔を見ていると時間が止まったような気分になりました。去年よりも警戒をしていなく、去年見られなかった子供たちの笑顔を見ることができました。5歳児の子達も私が中学1年生の時に学校の職業体験でお世話した子たちでした。5歳の子たちは2年前と違い、しっかりけじめがついていて、運動会の練習も一生懸命やっていました。いろんなとこから「お姉さん先生こっちきて!!」と言う声があり、体がいくつもあったらなぁ。と思いつつ、できるだけ多くの子たちのとこにいけるようにしていました。
 2歳児、5歳児と年齢の違う子供を世話することで、気にかける面なども違ったりして、この3日間とても有意義に過ごせました。
 1年たって子供たちの成長が見れて、また子供たちと一緒に接することで私の疲れきっていた心がとても癒されました。まだ子供な私が言えることじゃないですが、子供はとても大きなエネルギーを持っていると思います。子供の笑顔、成長を見ることで多くの人が癒されると思います。そんな子供たちを大人は見守っていてほしいと思います。私は来年も、再来年もそんな小さな宝がいっぱいいる保育園でボランティアを続けてて行きたいと思います。この活動を通して新たな大きいエネルギーをもらい、大きな壁「受験勉強」に専念できます。これからもこのような中高生会の活動、教会の手伝いなどは積極的にやっていきたいと思います。最後になりましたが、かおり保育園のシスター方、働いている方々、どうもありがとうございました。
  

ボランティアをして気づいたこと

                         中高生会リーダー 宿里 広太郎

 かおり保育園で中高生達といっしょにボランティアをした翌週、保育園の先生達が多摩教会の子達は、よく働いてくれて本当に助かるというような事を話していたと妻が教えてくれました。(妻は、かおり保育園の保育士です。)
それを聞いた私は、自分の事のように嬉しくなり、多摩教会の中高生はとても良く働くということを、誰彼かまわず自慢したくなるほど、誇らしく思いました。
 ひとしきり良い気分に浸ったあと、ふと、この気持ちは兄弟(姉妹)がほめられた時と似ていると気づきました。普段はけんかをしていても、兄弟の事をけなされると自分のことのように腹を立て、逆にほめられると自分のことのように嬉しくなる。
 私が小学生だった頃「教会の人はみんな兄弟なんだよ」と父が教えてくれました。当時の私は、父と自分が兄弟なんてどういうことだろう、と思う程度で意味をよく理解することが出来ませんでしたが、25年たった今、父が言っていた事がほんの少しだけ分かったような気がします。
 

 2004年度ニューズ表紙へ戻る