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2005年9月号 No.385  2005.9.17

「時間」、この不思議な観念 加藤 豊神父
典礼一口メモ (1)    
教会学校合宿の思い出  
中高生キャンプを終えて 下津 将秀
中高生キャンプ 山形 杏奈
中高生キャンプに参加して 手塚 薫
中高生キャンプ 加藤 俊太郎
8 「神の僕たちの山」を訪れて 高橋 英海

「時間」、この不思議な観念
                                          加藤 豊神父
 この巻頭言が公になるのは、予定どおりなら9月のことでしょう。そして9月には、わたしもワールドユースデイ・ケルン大会(世界青年大会・以下「WYD」)を終え、ホッとしていることでしょう。そうです。もう皆さん、お気づきのように、わたしは現在、この時点ではまだ来ていない9月の「ニューズ巻頭言」を書いています。正直いって、少々、気が引けています。だって「NEWS」の原稿なのですから、リアルタイムではない記事に意味があるのかどうか?と。ただ、にも関わらず、こうして見ようと思った理由は、以下のとおりであります。
 一つ目の理由は、おそらく9月のわたしを時差ボケが襲うだろうと考えたからでした。帰国後しばらく続く「時差ボケ」による悪影響で9月の「ニューズ巻頭言」が締め切りまでに書き上がらなかったら大変だ、という心配を(現時点では)切々と感じています。去年も「東京・ケルン姉妹教区50周年」訪問団のメンバーとしてドイツに行ったわけですが、帰ってからの時差ボケがなにしろ酷く、ついにいくつかの仕事に穴が空いてしまったのを覚えています。しかも今年は日本全国から、青年たちが約300人の参加する大会ですから、合わせて全世界でいったい何人の人がケルンに集まるのか、想像しただけでもゾッとするのですが、加えてWYDを終え、帰国してからの自分の姿が眼に浮かんでしまうわけです。
 二つ目の理由は、今回、東京教区からWYDに参加する青年たちが、「半年後のわたしへの手紙」というものを大会前に書くことになり、タイトル通り、WYD終了後しばらくすると、それが彼ら(彼女ら)のところに送られてくる手はずになっているのですが、このアイデアにみずからも載ってみようとわたし自身思い立ったことがきっかけです。WYDに参加した自分が、WYDに参加する前の自分を振り返ることになりますから、このWYDケルン大会の後、わたしはいったいどんなわたしになっているのやら? 
 三つ目の理由は、わたしが元々「時差」や「時性」、つまり「時間」の不思議さに興味があるからでもあります。そもそも「時間」とはいったいなんなのか? わたしたちは「時間」そのものを多くの場合、確実な実在であると思いこんでいますが、しかし実在するのは個々の物体で、時計でさえも、実は個々の物体(太陽や地球)の動きに基づいて「時間」をなんとか見えるかたちで表現しているものに過ぎません。その意味で、時間そのものは堅固な実在とはいえず、それはわたしたちが抱く「観念」であります。
 昨日の新聞は今日にはほとんど価値がありません。新聞は時間の観念性における「今」が命だからです。しかし同様に史学者や考古学者にとっては最古の情報こそが問題であり、気象予報士や占い師には「明日」が問題となりましょう。これらに対し、「福音」は時間の観念性からいえば「過去」のものでありながら、常に「未来」からわたしたちに発せられるメッセージ、即ち、時間の観念性とはまた別の「永遠という観念性」を、また、何よりも古いが、いつも古びない方である「神」を根拠としたメッセージ。
 と、WYDを前に、時間の観念を伴いつつ、わたしはこんなことを書いてしまいましたが、ふと我に返ってまた気が引けています。こういう話、ちょっと難しいですか?
  「時間について考えていると、わたしには全てが解らなくなってしまう」(聖アウグスティヌス)。

典礼一口メモ (1)
そもそも典礼って? 典礼奉仕って? 

                                       監修 加藤 豊 神父

 一般に「典礼」という言葉によって何を連想するでしょうか?
一般の人々にとっては「典礼」という言葉は葬儀社の名前に使われているので、葬儀社を連想するのではないでしょうか。「新明解国語辞典」(三省堂)では「典礼」とは、「一定の儀式」の古語的表現、「広辞苑」(岩波書店)では「定まった儀式、儀礼」「儀式をつかさどる役」と説明されています。では、カトリック信者にとって一般的に使われている「典礼」という言葉はどのように理解されているのでしょうか?

普通に考えると、日曜日に行なわれるミサのことだと思います。ミサはミサを行うための式次第や式文を記した典礼書を「ミサ典礼書」(司祭が使う厚い書) と呼ぶことからもミサが最も基本的なカトリック教会の典礼(定まった儀式、儀礼)であるといえます。

 では、典礼というのは日曜日のミサだけを指し示すのでしょうか。典礼には、キリストの死と復活を一年の中で盛大に記念する「聖週間」と呼ばれる典礼、主日のミサを軸とし、この聖週間を囲む四旬節と復活節、そして待降節と降誕節の季節や各祝祭日の特色をもった祭儀が典礼と呼ばれます。更に、教会の典礼には、入信式、叙階式、結婚式、葬儀、修道者の誓願式など種々の儀式を伴うミサがあり、毎日の定時の集会礼拝である「教会の祈り」、「神のことばの祭儀」、「集会祭儀」など教会の典礼の豊かさを示す重要な礼拝形態があります。

 教会の典礼を社会生活の行事に当てはめると、例えば、学校での「入学式」、「卒業式」。これらは一つの目的として学校の存在意識を関係者が確認し、建学の精神を浸透させ、目的に向かって鼓舞するためです。又、8月15日のように戦争の惨禍を思い、平和への決意を新たにする日として各団体に集うメンバーに共通する重要な事柄を共有し、意識し、目的の実現に向かって励まされる行事や式が挙げられます。又、「冠婚葬祭」も個人の生涯における儀式であり、「冠」は成人式、「婚」は結婚式、「葬」は葬儀、「祭」は祭祀(祖先の祭祀)、この世に生れた時の誕生の祝いなど、人生の節目にそれぞれの通過儀礼があり、それに従う一連の「行為」を人々は行なうのです。

 カトリック教会の典礼は教会に属する者の為の儀式であり儀礼なのです。典礼はまず信者が集まるという行為があって初めて始まり、そして賛歌を歌い、祈りを声に出して唱え、聖書を朗読し、それを拝聴し、一定の象徴的な動作や行為を相互に行なうという一連の「行為」の組み合わせによって進行します。典礼は、現実の集会で行なわれる相互の奉仕的な行為をとおして、究極的には、神に対する奉仕が行なわれるというところに、その本質があります。それは社会の中で行なわれる儀式に参加する人々の一連の行為のように主催者の意図を理解し感謝の心をもって一つになるように、私達はキリストの奉仕をとおして実現された、全ての人の救いのために、神とキリストの奉仕にこたえ、神の民が賛美と感謝の心を持って一つになり神のためにささげる奉仕が典礼であるように、典礼と奉仕とは別々なものではなく、典礼そのものが奉仕であることを心に刻み典礼に関する理解を深めたいと思います。

                                    (次回は典礼色のお話を致します。)

合宿の思い出   (小学生 7月27日〜28日  高尾の森わくわくビレッジ)

                     ごうはら そうた(小1)
 けーぶるかーたのしかった


                     やどり ゆうな (小1)
 よる、みんなでげーむしたことがたのしかった。けーぶるかーにのったことがたのしかった。


                     い じゅうひゃく(小1)
 みんなでゲームをへやでしたのがたのしかった。


                      うぇけ しーらけい(小1)
 ケーブルカーで、たかおさんにのぼって、たのしかったです。


キャンプ
                     石綿 日向子  (小2)
 みんなと仲よく行けてよかったです。ケーブルカーで高尾山にのぼってさる園に行ったことが楽しかったです。夜、聖歌のれんしゅうをしてロザリオのいのりもしました。教会のキャンプは本当に楽しいです。


ケーブルカー
                      河野 光浩   (小3)
 ケーブルカーの上がりは電車みたいでした。下がりはぐらぐらゆれてジェットコースターみたいでした。林みたいな所がありました。


キャンプ
                      石綿 凌   (小3)
 下りのケーブルカーは、けっこう速くて、ぼくたちは、一番前で涼しくて楽しかったです。サル園に行って質問を飼育係さんにしました。勉強になりました。夜は、聖歌とロザリオの祈りをしました。一生懸命心をこめて頑張りました。教会のキャンプは楽しかったです。


夏合宿の思い出
                        高橋 美穂  (小5)
  夏合宿に、高尾山に行きました。宿泊場所についたと思ったら、荷物をおろして、高尾山にケーブルカーでのぼった。そしてサル園に行った。サル園の中に子ザルや、ボスザルがいた。子ザルは、まだお母さんにくっついているサルもいれば、もう自分であそんだりしているサルもいた。物から物にとびうつるヤツもいた。とてもかわいかった。


                       下津 智秀  (小5)
 猿園に着いたらすぐに猿を見た。色々なことをしているので、楽しかった。たとえば、りんごを食べていたり、でかい声をだしたりしてすごかった。毛づくろいしているやつもいた。たとえば猿はどうして寒さにたえられるの?とか聞いたら答えてくれた。とにかく、合宿に行ってよかったと思います。


                       宿里 春奈  (小5)
 私は、教会学校の合宿で、みんなで、高尾山に登ったことが、とても楽しかったです。一番上まではいかなかったけれど、すごく高かったです。今度くる時は、みんなでもっと上まで登りたいです。


夏期合宿の感想
                        手塚 瞳   (小4)
 私が、今年の合宿で一番楽しみにしていたのは、高尾山に行く事でした。合宿は、一日目は台風でなくなってしまいました。でも、次の日は晴れて高尾山に行く事になりました。高尾山では、さる園にも行きました。赤ちゃんざるも、ボスもいました。高尾山に登るのは、ロープウェーでした。ロープウェーのまわりには、木がたくさん生えていました。一日目の夜には、子どもミサの役わりを決めるのと、ゲームをやりました。私は、子どもミサの役わりは、朗読にしました。ゲームは2〜3しゅるいぐらいやりました。夏期合宿は、楽しかったので来年も行きたいです。



中高生キャンプを終えて

                            中高生キャンプリーダー 下津 将秀

 今回の中高生キャンプは、調布教会との合同で行われ、長野県の野尻湖に行きました。野尻湖は東京に比べて涼しく、天候も湖で泳いだりバーベキューをしたりするときは、良い天候になり、楽しむことができました。中高生達は、みんなとても活気があり、食事当番や掃除をテキパキとこなすので驚きました。浦野神父様の、「みんなの心には植えた種がちゃんと育っている」とおっしゃった言葉は、まさにその通りだと思います。
 また、僕は親や弟と違い受験や浪人等で多摩教会に行くことが少なく、知り合いもあまりいなくてキリスト教自体に対する理解も少ない状態でしたが、今回のキャンプに参加したことで、中高生達と知り合うことが出来、聖書にも興味が出てきたので本当に良かったです。来年の多摩、調布、府中の三教会合同キャンプも今回のキャンプのようにとても楽しく、活気あるキャンプになるといいと思います。

中高生キャンプ
                                          山形 杏奈
野尻湖に行く直前は、ハッキリ言って参加メンバーも少ないし、どうなるのかなぁと思っていました、けど最終的には今まであまり仲が良くなかった人とも仲良くなれ、とっても楽しい合宿になりました。星空大会だったり、みんなでスポーツをしたり、湖で遊んだり、花火大会をしたり、スタンツをしたり、フリートーキングをしたり・・・。本当に楽しかったです。また来年も行くゾ!!

中高生会キャンプに参加して
                                    中1   手塚 薫
 夏休み、僕は中高生会の合宿に参加しました。今回は初めての合宿だったので、楽しみな面と不安な面両方ありました。だけど、みんなが仲良くしてくれたおかげで、不安な気持ちもすっかり無くなり、初日からとても楽しかったです。
 2日目には体育館でスポーツをしました。バトミントンはあまりできなかったけど、バスケットボールは、パスも決まってうまくできました。野尻湖にいったときは、泳ぐだけじゃなくてボートにも乗りました。でもなかなか前には進みませんでした。
 BBQでも火がなかなか点かなかったけど、長い間待った分美味しかったです。でも一番楽しかったのは、スタンツです。どのスタンツもその人の個性が出ていて、すごくおもしろかったです。また来年もぜひ行きたいです。
 リーダーの皆さん、こんなに楽しい合宿を計画してくれてありがとうございました。多摩教会、調布教会の中高生会の皆さん、いろいろありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 

中高生キャンプ
                          加藤 俊太郎 
 僕は、この3泊4日の合宿で楽しい日々を過ごしました。僕は野尻湖に行くのが初めてなので、どういう所なの
か楽しみにしていました。かなり長く車に乗り、野尻湖の山荘に着いたら、山荘がかなり大きかったのでビックリしました。今回は調布教会との合同合宿でした。調布の人達はみんな元気で面白い人ばかりで、この人達と4日間一緒に過ごしたら楽しそうだなと思いました。
 あと今回調布教会から、須藤さんという食事担当の人が来て美味しい食事を作ってくれました。その須藤さんが作った1日目の料理はカレーで、家のカレーより断然、美味しい味でした。2日目の朝は加藤神父のかわりに来てくれた浦野神父がミサをしてくれました。山荘の聖堂はとても大きく、多摩教会にもすこし似ていました。ミサが終わると、山荘近くの体育館でバスケやバドミントンやドッジボールをして汗を流しました。
 午後は、山荘からすぐの野尻湖で泳ぎました。最初は冷たかったけど、入っているうちに慣れてきて、外よりも温かかったです。3日目は朝から野尻湖で泳ぎました。午後は、食事を食べに出かけました。着いた所はピザ屋で、美味しいピザを食べました。
 して夜は自分もかなり楽しみにしていた、バーベキューをしました。最初は木に、火がつかず、とまどっていたけど、やっと火がつき鉄板をのせました。山の中で食べる肉や野菜は普通に食べるのと違って、さらに美味しく感じました。バーベキューが終わると、 スタンツ(演芸会)をしました。俺は調布教会の、井上真也君とペアーになってお笑いをしました。みんなの前でお笑いをするのは、かなり緊張したけど、かなり思い出に残りました。その後ゲーム大会などをして盛り上がり、結局深夜までみんなと雑談をしていました。
 そして最後の4日目は起床時間がいつもより遅かったのでゆっくり寝ていました。この合宿最後のミサは浦野神父がいいことを言ってくれて感動しました。僕はこの合宿で、調布教会のみんなと楽しい日々を過ごせて本当によかったと思っています。来年は府中教会の人達も呼んで、もっと楽しい合宿にできたらいいなと思います。

「神の僕たちの山」を訪れて
                                             高橋英海
 八月にトゥール・アブディーン地方に行ってまいりました。トルコ南東部、シリアとの国境に近い都市マルディンから東に100キロほどにわたって広がるこの高原地帯は、人口の99.8%をイスラム教徒が占めるトルコでは珍しく、ごく最近までシリア正教会(いわゆる「単性論派」、「ヤコブ派」)のキリスト教徒がまとまって住んでいた地域です。また、いまだにトルコ語やアラビア語ではなく、キリストが話した言葉でもあるアラム語の一種のトゥーローヨー方言が話されている地域としても知られています。
 かつてローマ帝国の東方の辺境地帯であったこの地域には早い時期から無数の修道士が住み着き、いつの頃からか「神の僕たちの山」と呼ばれるようになりました。7世紀に一帯がイスラム勢力によって征服された後もシリア正教会の牙城として残り、第一次世界大戦中の大虐殺を含む度々の迫害にもかかわらず、1960年代にはまだ4万人のキリ・スト教徒がいましたが、その後、トルコからの独立を望むクルド人の闘争によってこの地域の治安と経済状況は悪化したため、キリスト教徒の多くも村を捨ててイスタンブールやヨーロッパヘ移住し、現在この地域に残るキリスト教徒は2千人に満たないとのことです。
 今回の旅行では多くの発見や出会いがありましたが、ここではその一部をご紹介させていただきます。
 トゥール・アブディーン地方の中心に位置する小都市ミドヤトから北東へ20キロほどのハーハ村にある聖母教会は言い伝えによれば世界最古の教会です。キリストの誕生の際に東方からやって来た12人の王たちは、途中、この地に立ち寄り、その内の3人がベツレヘムまで旅を続けたそうです。そして、3人が持ち帰った幼子の産着を切り裂いて分けることをためらった王たちは(ヨハ19.23に似たような話が…)、燃やして灰を持ち帰ることにしたのですが、産着を火に投じたとたん、それは12個の黄金のメダルに変わり、王たちはこの奇蹟を記念してこの地に教会を建てたというのです。実際には現在の聖母教会は7世紀に建てられたものですが、この地域でもっとも美しい教会として「トゥール・アブディーンの真珠」の別名で知られています。
 ハーハヘの道の途中にあるサラハ村は、村はずれにある紀元421年創建の聖ヤコブ修道院が有名ですが、村には今はキリスト教徒は一人しか残っていません。いかにも頑固親父という風貌をしたそのアジーズさんに案内してもらって訪ねた村の聖エフレム教会は牛小屋として使われていました。キリスト教徒が出て行った後に近隣のクルド人が住み着いているケースが多いトゥール・アブディーンの村々ではこのような例は少なくないとのことです。
 しかしながら、今回の旅で意外だったのは行く先々の村でヨーロッパから戻ってきた人々と出会ったことです。1990年代の終わりにトルコ軍とクルド人勢力の間で停戦が成立して以来、この地域の治安は回復しています。また、トルコのEU加盟問題と関連してトルコ政府は国内の少数民族の人権問題に真剣に取り組むようになり、キリスト教徒の立場も改善されています。そのような状況の下、移住先のドイツやスウェーデンなどから人々が故郷の村に戻り始めているのです。さらに、多くの村や修道院ではこの2,3年の間に教会・聖堂などの修理・改装工事が行われているのも目にしました。
 キリスト教発祥の地である中東では多くの地域でキリスト教徒は困難な立場に置かれています。特に聖地パレスティナや治安回復の兆し見られないイラクではキリスト教徒の人口は日に日に減りつつあります。そのような中で、トゥール・アブディーンは珍しくキリスト教徒の人口が増えつつある、希望の地でもありました。

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