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2005年12月号 No.388  2005.12.17

光と闇のはざまで 加藤 豊神父
典礼一口メモ(4)  
多摩教会遠足2005「サレジオ高専」訪問記 石井 由利子 
仲間との別れ 宿里 広太郎

光と闇のはざまで
                                           加藤 豊 神父

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9:1)。これは毎年「主の降誕夜半のミサ」で読まれる第一朗読「イザヤの預言」からの一節です。
 ご降誕祭(クリスマス)は、いうまでもなく主イエスの誕生の記念ですが、もう少し詳細にかつ象徴的にいいますと、「真の光であるキリストが、希望を失って暗闇に沈んでいた人々のところに来てくださったこと、その出来事の記念である」と、いうことができます。
 人は皆誰でも心に闇を抱えて生きている、というキリスト教の人間観は暗過ぎるでしょうか? 以前、村上龍という作家が「この国にはなんでもあるのに希望だけがない」といっていましたが、わたしは「然り」と思ってしまったのでした。こんにちわたしたちは、一方で目を覆いたくなる残虐な事件の連続に青ざめ、またもう一方でみずからの生活における困難で雑多な重荷に押し潰されそうになります。わたしたちを取り巻く諸問題は、人類の未来に関わるものから、個々人の日常にとって壁となるものまで種々様々ではありますが、よくよく考えてみれば、人間とはもとより苦悩せる者であり、その点は古今東西変わらぬ真実であって、別段キリスト教だけが暗過ぎる人間観に偏っているわけではなさそうです。
 ところで、こうした人間存在の暗い側面から眼を反らすことは簡単です。わたしたちの周りには、真の光の「代用品」が溢れているからです。なにしろ「希望」以外ならなんでもあるのですから、とりあえずこの世の楽しみに浸っていれば、しばらくは真の光など必要ないと思えるほどに心を明るく保てることでしょう。しかしながら、それは一時的な慰めではあっても、最終的な方向付けをわたしたちの人生にもたらしてくれるものではありません。イザヤ書にはまた次のように記されています。「見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし、松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って、自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう」(イザヤ50:11)。
 「(人間が)自分で燃やす松明」、即ち(神からの)真の光の代用品、「神なんて信じてなくても生きていけるさ、信仰なんてなくたって死にやしないさ」という結論。しかしやがて必ず「松明」は消え、「なんか面白いことないかなぁ」と呟き始め、詰まるところすべては空しいという感覚が芽生えます。その折上手く行かないことなど続いた場合、果ては生きていることにさえ疲れてしまう。本当に恐ろしいことです。「光が世に来たのに(中略)人々は闇の方を好んだ」(ヨハネ3:19)。「松明」に慣れている分、光を見いだすこと容易ではありません。
 今やキリストを待ち望む人は幸いです。心の闇と向き合うことは決して楽しいことではないはずですが、代用品では満たされないという実感はそれを凌駕するゆえにとても大切です。「寂しさ」や「虚しさ」から手軽に逃れたいと思うのは人の常でありましょう。それでもあえて「松明」に頼ることなく、いっそう深い喜びを期待してご降誕祭を迎えたいものであります。


典礼一口メモ(4)
ミサの中で行なわれる所作(動作)の意味
(ミサ中に立ったり座ったりするのは?)
                                           監修 :加藤 豊神父

 立つ姿勢はイエス・キリストの復活を象徴し、座るのは黙想する姿勢と伝統的に考えられています。
 入祭の歌やアレルヤ唱、閉祭の歌などは立って歌います。その行為は、キリストを迎えることと、キリストと共に派遣されていく私達を意味(意識)することです。
 現代では、日常でも一般に私たちは、人を迎えるときには必ず立って迎えます(お座敷で迎えるときには座って迎えますが)。それは、迎える人に敬意を表すからです。又、じっとしていられないほどの喜びを感じるときにも、立ち上がって感情を表現します(コンサートでのスタンディングオベーションを思い起こしてみてください)。そのように考えると、立って迎えること、感情を表すことの行為と同じものであるといえます。
 福音朗読を聞くとき、信仰宣言を唱えるとき、感謝の典礼のほとんどの場面で私たちは立ちます。それは復活して私たちの間に立っておられるイエス・キリストを意識する行為なのです。
 司式者も会衆も、ミサに参加するすべての人が一緒に心と声を合わせて祈りをささげるとき、私たちは立ちます。
 朗読される聖書のことばや司祭の説教など、目の前で行われていることに集中し、心を落ち着けて味わい、いただいた恵みについて黙想するときは座ります。
 私たちは人の話に集中して耳を傾けるとき、心を落ち着けてじっと考えるときには立って聞くより座って聞くのではないでしょうか。まして神様の呼びかけ、言葉を聞くときには、心を落ちつけて言葉の一語一語をしっかりと味わい、自分の心に沁みこませるためにも座って落ちついて聞くことが大切です。
 座って歌うときなどは黙想、観想の状態から神様に応えることを意味し、意識をします。また、朗読後の沈黙のひと時は、神様の業を思い起こし、味わいながら黙想する深い祈りのひと時なのです。ですから、座って祈りを集中させることが必要となります。
 ただし所作(動作)に関しては、時代と文化、国民性によって異なる事があるので、所作(動作)そのものに縛られるのではなく、捧げている祈りと、大切にしなければならないものが何かを意識することこそが重要なのです。
                                (典礼一口メモ・シーズン1の掲載は今回で終わらせて戴きます)


多摩教会遠足2005「サレジオ高専」訪問記
                                           稲城 石井 由利子

 11月23日、「サレジオ工業高等専門学校」に55名で訪問しました。2005年4月、町田市小山ヶ丘に移転した新校舎は、美しく洗練され、明るく機能的なキャンパスでした。
 校長先生の田中次生神父様が、御自身で案内してくださいました。田中神父様の熱意が伝わってきて、若い力が育つ環境であると理解できました。昼食時の懇談で伺った「朝礼」「Morning Talk」も素晴らしいプログラムです。校長先生の「仲間を大切にし、励まし助け合う、渡り鳥・ガン」の御話は心に響きました(詳しくは別の機会に)。高専生に、聞き取り&要約させ自分の考えを表現させる作業は、日々の積み重ねによって、大きな力が養われるでしょう。
 校内見学で特に感動したのは「夢工房」でした。テレビで拝見した「鳥人間」の実物、充実した設備、大人の私でさえワクワクする空間でした。校舎内で「ソーラーカー」「ロボ?」の展示も楽しめました。広いサッカー場・グラウンドは環境を考え「全天候型人口芝」、周辺地域に対する配慮も感じました。
 我家の娘達は小学校から中・高まで近くのカトリック校で学びましたが、どのお教室にも十字架がございました。「サレジオ高専」は、お教室の他いたるところで「マリアさま」が、優しく暖かく見守っていてくださいます。多目的ホール隣の「聖堂」も素敵でした。
 校舎中央階段、正面のステンドグラスは、楽器を奏でる画で美しく輝き、お教室近くにもグランド・ピアノが設置され、「音楽・芸術は人の心を豊かにする」という言葉の通り、嬉しく存じました。
 5年間で卒業生が「即戦力」になる「サレジオ高専」は、大学で授業をしている私共としても非常に魅力的で、もうひとり子供がいたら入学を薦めるでしょう。社会のお役に立つ、頼もしい若い力が次々に巣立っておられることでしょう。豊かな気持ちで帰路に着きました。感謝。


仲間との別れ
                                           宿里 広太郎

 多摩教会には任意団体ですがサッカー部があります。2年ほど前から活動していて、試合の汗とお酒を通して近隣の教会等と交流を深めています。
 1年程前からヤツェック・シュビンスキーも、いっしょに練習をするようになりました。彼はポーランドから来ていて、体つきが屈強で、左足のキックが強烈で、子供の年は同学年でした。年齢が近かったこともあってか、いっしょに酒を飲んだり、相撲を見に行ったりと親しくさせてもらっていました。
 10月の中旬頃、ヤツェックがポーランドに帰ってしまうという噂を耳にしたのですが、私は冗談だろうと思いあまり気に留めていませんでした。念のため当人に確認してみると、どうやら本当のようです。
 それからというもの、私は、練習中、練習後、酒を飲んでいる最中、また、ミサ後の時間と、いたる所で手を変え品を変え帰国しないように説得を試みたのですが、ヤツェックの気持ちは変わらずじまいで、最後に「寂しい、子供に会いたい」と言われてしまうと言葉が出ません。私にも子供がいますし、その気持ちは十分理解できるのですが、ヤツェックが帰国すると、私もサッカー部の仲間も、もとても寂しいわけです。
 サッカー部としても帰国前にヤツェックヘ初勝利をプレゼントしたいとの理由から、壮行試合を12/10に行うことが決定。私もいつもなら気分が高揚し、楽しさと緊張が入り混じったような気持ちで試合を迎えるのですが、この日はヤツェックとの最後の試合となる可能性もあると思い複雑な気持ちのままでの壮行試合となりました。
 試合はサレジオ高専のグランドにおいて、ジプシー(中央大学のサッカー同好会)と15分を4本(計1時間)で行われ、多摩教会も全員が持てる力を全て出してボールを追いましたが、大学生の若さとテクニックの前に、相手陣内にボールを運ぶ事さえほとんど出来ず、一方的に失点を重ね意気消沈し始めていた3本目開始5分!!相手陣内でボールを取られるも、すぐさま高い位置で相手に対し人数をかけて追い込みボールを奪い返す。そこから鋭い多摩教会のカウンター攻撃、ヤツェック20m独走。ゴールキーパーとの1対1から右隅にゴ〜〜ル!!!!!
 複雑な気持ちも吹き飛ぶゴールに、チーム全員が勝ったように喜び、声を上げましたが、善戦もここまで。  
 結局試合には敗れ得点もこの1点だけでした。しかし、本当に強いチームから奪ったヤツェックの得点は素晴らしいものでしたし、各々の年齢の運動能力を遙かに超えるチームのみんなのがんばりも、また素晴らしいものでした。
 「日本には素晴らしい教会があって、素晴らしい仲間がいることをポーランドに自慢しに帰ります。また、必ずいっしょに試合をしましょう。」と言ってヤツェックは12/15に帰国していきました。私もまた会える日を楽しみに待っています。次にいっしょに試合をするときは、絶対勝ちましょう。 

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