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2006年1月号 No.389  2006.1.21

「夢」 加藤 豊 神父
聖劇に参加して 塚本 博幸 
長女の洗礼 榊原 悟 
洗 礼 M.オディリア 郡司 あずさ
私たちの輪読会 藤田 照子

 「夢」
                                       加藤 豊 神父
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。この場をお借りして、今年も皆さんのご多幸を心からお祈りいたします旨、慎んで申し上げます。神に感謝。
 さて、本号ではお正月らしく「初夢」についてお話しさせていただきます。今年、皆さんが見た初夢は、どのようなものでしたでしょうか? 初夢には、古くから「一富士、二鷹、三茄子」というランクが設けられているので、一昔前までは、年明けともなれば皆こぞって「富士」を狙ったことでしょう。悪夢を食べてくれると信じられていた架空の動物としての獏の絵が書かれた紙を枕の下に潜ませて眠りに付いていた者数知れずです。
 ところで、最近わたしはあまり夢を見なくなりました。夢は、いわゆる「レム睡眠」の時に見るものといわれています。だとすると、わたしも明け方には必ず見ているはずなのですが、ようは朝起きてすぐに忘れてしまっているわけですね。
 以前は随分と色々なことを夢で見ました。わたしの性格がそれほど楽天的なほうではないからでしょうか、今でも覚えている夢は残念ながらほとんどが悪夢なのですが、そのなかでも忘れることができないある夢があるのです。その夢の中でわたしは自転車に乗っていて、行き先はよくわからないのですが、ペダルを踏んでいるうちに、なぜかサドルとハンドルがだんだん高くなってきて、それに合わせてペダルの位置も高くなり、遂には地に足が付かない状態で運転している自分に気づくのです。その高さは、極端に高い場合はおよそ地上10メートルくらいにまで達します。「極端に高い場合は」。そうです。この手の夢は、少なくとも3回以上は見ていると思います。その度わたしは不安でたまらなくなり、このままだと倒れて怪我をしそうだから、どこかで自転車を留めてサドルを下げたい、とか、もう降りて歩きたい、と強く願ったりしているのです。夢の中で。
 よくいわれることですが、夢には日頃から心に抱いている不安、不満、願望、印象的だった出来事の記憶などが表れるのだそうです。ということは、たとえば初夢が「富士」であろうと、はたまた悪夢であろうと(そうあって欲しくはないですが)それらはもとよりわたしたちの心がけに勝るほどの重要性を持たないのです。むしろ「一年の計は元旦にあり」というくらいで、「心がけ」から一年を計ろうとするのが当然の理でありましょう。昼のわたしたちが夜の夢に左右されるのではなく、逆に昼のわたしたちが夜の夢を左右しているのです。もっともその日の夢はその日の気分に影響しますから、わたしも夢を「どうでもいいもの」「無価値なもの」だとは決して思いません。ただその際にも忘れてはならない点は、「なぜその夢を見るに至ったのか」という点なのです。
 旧約聖書には、あたかも予知夢のような夢をもとに預言者が未来を暗示する場面が多く描かれています。しかし先述のとおり夢は「未来を」ではなく、過去を根拠に生じる現象です。ですから聖書に登場する預言者たちの夢(一見「予知夢」のような)でさえも実質的には過去を根拠にしているのです。それではいったい、なにゆえ予知夢であるかのような書かれかたをしているのかというと、その理由は「落ち着いて過去を省察することが何より未来への手がかりとなる」からで、だからこそ旧約聖書は、夢の内容そのものではなく、夢の内容の解釈にこだわっているのです。
 初夢は、きっとそのままでは何の価値基準にもならないばかりか、迷信の域をでず、夢の内容如何によっては気の弱い人に迷妄を抱かせてしまい、その年を貫く判断材料にはとてもなり得ないでしょう。但し古(いにしえ)の知恵や言い伝えには必ずそこに隠された意図があります。「なぜその夢を見るに至ったのか」それを探ること、即ち、年の初めにあって、これまでの自分を謙虚に振り返り、そこから明日への道標を見出そうとする営みが「初夢」という一種の夢判断にも似た習俗に反映しているのではないでしょうか。
 わたし自身、正直いって自転車の夢はもうごめんですが、既に3回以上は見ていますからおそらくまた見ることもあるでしょう。とはいえ、今さらそれを獏に食べてもらいたいとも思いません。わたしがその夢をきっかけにみずからを謙虚に振り返るなら、それは悪夢であるどころか、ひょっとしたら、これからのわたしに大事なヒントを与えてくれるものともなるからです。

  聖劇に参加して   
                                             塚本 博幸
 私は約2年ぶりに聖劇にヨセフという役で参加しました。ここ2年間は中高生会のメンバーとしてギターを弾き、聖劇のときは伴奏をさせていただいていました。 ギターを弾くのはなかなか楽しいことであったし、子供ミサでも引く機会があったので今年の聖劇はどんな曲をやるのだろうと楽しみにしていました。そんな時、教会学校の方から「ヒロには聖劇に出てもらいたいな」という話を聞きました。正直とても恥ずかしくなりました。小学校時代にも聖劇にはでていましたが、恥ずかしい思い出のほうが圧倒的に多かったからです。しかし、川原さん(今年ヘロデ役だった大学生)も出ているんだな、と思って今年は聖劇に役者として参加してみることにしました。
 実際に台本を見てみるとせりふはほとんどなくて安心したものの、その分一人で歌う部分が二回もあり、歌詞を間違えないかと不安になりました。しかし、練習あるのみと思って自分なりにがんばって練習しました。
 そして、本番。なかなかうまくいきました。みんな大きなミスもなく、完璧にこなしていました。私もリハーサルでは間違えていた歌詞を間違えずに歌うことができ、100点満点をあげたい気分になりました。
 今回、聖劇という、普段は行われない形で神に近づくことができ、自分の中でも斬新ないい思い出になりました。これからもいろいろな形によって教会に奉仕していきたいと思います。

長女の洗礼
                                            榊原 悟
 昨年12月25日、主の御降誕ミサに長女の優奈(1歳)が皆様方多数の前で洗礼を受けた事を家族共々非常に喜んでおります。
 特に加藤神父様の計らいで長男の光(12歳)が優奈の洗礼に待者としてお手伝いさせていただけた事に感動し感謝しております。光自身は待者の経験が数回しか無く「かなり緊張しまくり!!」と言っておりましたが、良い想い出になった事と思います。ありがとうございました。又、御降誕ミサ直前にお忙しい中、高橋さんに代母になっていただき、ありがとうございました。
 本来は昨年の御復活祭に洗礼を受けさせたかったのですが、半年前より単身赴任でなかなか東京へ戻って来ることが出来ず、気にかけておりましたが、主の御降誕の良き日に皆様方に祝福され優奈が洗礼を受けた事をうれしく思い感謝しております。今後も優奈はもとより、家族共々よろしくお願いいたします。

洗 礼
                                           M.オディリア 郡司 あずさ
 12月25日のご降誕祭に洗礼を受けました。私が洗礼を受けたいと思ったのは、お母さんと一緒に、お祈りやミサに来るうちに「私も洗礼を受けたいな」と思いました。
 自分が洗礼を受けるという事を考えていなかったので、きっとイエス様が導いてくれたのだと思います。
 神様から頂いたお恵みを、将来、保育士を目指している私は、その子供達に、私が頂くお恵みを、子供達に分け与える事が出来るようになりたいです。

私たちの輪読会
                                        豊ケ丘   藤田 照子
 2003年6月17日、私たちの輪読会が発足しました。加藤神父様、初回の金曜日の講座でのこと、自己紹介を兼ねて要望も併せて発言させていただきましたが、その中で I さん始め何人かの人が聖書を通読したい・・・・・と。これが始まりで I さんと打合せをして、とに角、無理のないように始めてみようということになりました。
 それから、2年半、昨年12月に旧約聖書(続編も含めて)の通読が終りました。
 50回、1 0 0時間、勿論おしゃべりの時間を含めてではありますが、一字一句、一人では読み飛ばしてしまうような箇所も丁寧に読んで参りました。今年、1月から、新約聖書に入ります。
 それぞれ、受け止め方は違うと思いますが、「聖書を読むことは、信者にとって素晴らしいお恵み」という点が、メンバーの一致した感想でした。
 私には、輪読会の根幹となった二つの出会いがありました。一つは、レデンプトール会の吉山神父様の講座を受けた際、「各教会で神父の解説を抜きにして先ず、聖書を読むグループを作ったらどうか」との、提案を聞いたことでした。二つ目は、かつての職場にプロテスタントの方達による聖書研究会のグループがあって、カトリックの私も参加させていただいておりました。研究の方は、落ちこぼれでしたが、一節づつ丁寧に読む楽しさをこの時、知ったのでした。神様はこのような手段を使われて、私のような者にも小さな種を蒔いて下さったようです。それを、また小さなみのりとしてお与え下さったのだと思います。
 目が不自由になり、耳が遠くなるまで、果たして何回、通読できるのか、これまた、楽しみでもあります。
 メンバーは、10人程度が適当と思われますので、たくさんの通読グループが誕生するよう、願っております。                                                               感謝のうちに

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