多摩カトリックニューズ表紙へ戻る

2006年3月号 No.391  2006.3.11

洗礼のめぐみ 星野 正道 神父
“信仰と光”の魅力  加藤 幸子  
聖書に親しむ2 神井 貢成 
教会学校のカルタ会 下津 ひとみ


洗礼のめぐみ                                 
                                  星野 正道
 神父

 このたび復活の主日よりみなさまの多摩教会で協力司祭として奉仕させていただくことになりました星野です。どうぞよろしくお願いいたします。
 大司教様からこうして新しいお仕事をいただいてあらためて自分の現在あるのはどうしてなのだろう、なんて考えています。
 今、司祭として使っていただいているその基礎に洗礼のめぐみがあります。洗礼のめぐみはいろいろな観点から語ることができそうです。罪のゆるし、イエスの兄弟になる、父なる神のこどもになる、教会への参入・・・。こうして挙げていくとこんなふうに思えて来ませんか。わたしが罪のゆるしを受け、わたしがイエスの兄弟になり、わたしが神の子になり、わたしが教会に迎え入れられた。「わたしが」、それはたしかなのですが、でもはたして洗礼のめぐみとはこの私だけにしか働きかけていないのでしょうか?
 そこで自分のことを考えてみました。わたしの家は明治のはじめにカトリックになりました。おじいさんが120年くらい前、パリミッションの神父さんに出会って東京教区の浅草教会で洗礼受けたのが始まりでした。とても熱心な人だったらしくてすぐに彼の兄弟姉妹たちも洗礼のめぐみをいただいたようです。このおじいさんにはたくさんの子供がいました。そのひとりがわたしの父です。もちろん幼児洗礼です。でもここからが問題です。みなさんの中にもせっかく幼児洗礼を授けたのに「わたしみたいに熱心でなくてこまったわ」なんていうお子さんがいるでしょう。父はまさにそんな人だったみたいです。わたしが生まれて、洗礼をと考えたようですが宗教は自分で出会って自分で選ぶものだ、と言って授けませんでした。でも気が引けたのか、幼かったわたしの手を引いてよくそのころ住んでいた荻窪から電車に乗って浅草教会に連れて行ってくれました。そこで何をしたか覚えていませんが、そんな父と二人っきりの時間がやけにあったかいかけがえのないものとして記憶の中にのこっています。しかしそんな日々もつかの間、わたしが5歳の時父は一足先に帰天しました。だからわたしがその後成人して自ら教会を訪ね、神父になりたいと言い出すなんて彼はまったく思ってもみなかったことは確実です。そして母もわたしが神学生の頃、関町教会で洗礼へと導かれました。これも彼にとって予想外のことだったでしょう。今この二人は浅草教会の谷中の墓地で何を語り合っているのでしょうか。
 これはちっぽけな一つの家族の物語ですが、でもそこには最初に洗礼に導かれた人がいて、親としてもっとも良いと信じたことをこどもにも伝えようとした人たちがいて、でもいつの間にか信仰が忘れられていく時があり、もう教会とはご縁がなくなるのかな、としか思えない時があったりしたのです。しかし誰かが洗礼を受けたからこそこんないろいろなことが起こってくるというのも事実です。神様は消えかけた灯心を吹き消さない方です。エッサイの切り株にひこばえを生え出でさせる方です。人の目には価値無きものをつかって御自分の計画を実現させる方です。
 今年の復活祭にもたくさんの方が洗礼のめぐみに与ることでしょう。そのめぐみの意味がわかるのにおそらくわたしたちは自分の残り時間だけでは足りないのでしょう。それほど洗礼のめぐみは愛深いものなのだと思います。愛深いものだからこそわたしを越えて、時間を超えて、わたしの知らない人をキリストに結びつけていくのでしょう。
 そんなゆったりした時間が教会から流れ出て行きますように。

“信仰と光”の魅力
                                                   加藤 幸子
 今回は”信仰と光”共同体の魅力について述べてみます。”信仰と光”共同体の特徴の一つは、開放的なところです。いつでも、誰にでも開かれている場です。
 2月の集いには、たまたま教会の入門講座に来られたT青年が、入門講座までに、1時間ほど時間があるとのことで、”信仰と光”に飛び入り参加されました。教会のホームページを見て訪れたのことでしたが、自然な雰囲気で集いに参加され、私たちにとっても豊かな体験となりました。
 福音書には、イエスさまが、小さな人々、弱い人々に進んで近づき、声をかけ、食事を共にする様子が、繰り返し描かれています。イエスさまは誰とでも、分けへだてなく、交わることが大好きでした。”信仰と光”も、このイエスさまの姿にならい、知的ハンディをもった人たちと共に、誰もが、上下、優劣の差から解放され、神の前によろこび集う、そのような体験ができることを目指します。多摩教会での集いを3年余り続けてきて、分かってきたことは、知的ハンディをもつ人たちは、長い年月の間に、凝り固まってしまった私たちの、上下意識、優劣意識を、根本から解放してくれる、ふしぎなカを持っているということです。幸せとは、あるがままの自分自身でいられることだと、彼らを通して気づかされます。
 H君は初対面の人(必ず女性ですが)に「○○さんだ−いすき」と大きな声で言ってくれます.私も言われたことがありますが、何というか照れくさいような、でも、素直にうれしいと感じます.言葉がストレ-トに心に響いて、うれしいのです。あ−、こんな言葉、ふだんは誰にも言っていないし、言ってもらってもいないなと。
 そして、この世で大切なことは、決してむずかしいことではないのだと、突然悟ったりします.”信仰と光”には、このような気づきがたくさんあります。
 教会共同体は組織が大きくなると、なかなか顔と名前が一致しなかったり、交流する機会が限られたりしてしまいます。そのような中で、月に一度、互いの存在を気にかけ、うれしいこと、悲しいことを分かち合い、イエスさまと共に過ごす小さな場は、福音のよろこびを味わう、共同体の原点のように思えます。
 多摩教会には、このような小さな共同体が、いくつか存在しますが、”信仰と光”もその−つとして、皆さんに大いに活用していただきたいと思います。
  H君以外にも、ユニークなメンバーが何人も集っています!
 毎月第3土曜日14 : 00〜(8月は休み)信徒館1Fにて。

聖書に親しむ
    ちょっと違った角度から(2)
                                                    神井 貢成    
 キリスト教国の人たちが聖書からの言葉を折に触れて故事、ことわざとして日常の生活の中で多く使っています。私たち日本人も同様にそれらの言葉をことわざとして使っているのですが、気がつかないでいることも多いのではないでしょうか。某テレビ局の番組で 「へえ〜」を連発する番組がありますが、その中でも日本独自のことわざだと思っていた回答者のなんと多かったことか。

       "Things like scales fell from his eyes."
             “目からうろこ”

 「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どうり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 (共同訳・使徒言行録9章18 ・ 19)

 Immediately things like scales fell from his eyes and he regained his sight. He got up and was baptized, and when he had eaten, he recovered his strength.(New American Bible)

 目からうろこが落ちるというのは、“あることをきっかけに急に物事の真相や本質がわかるようになること”を言うと辞書にはでています。これは、聖書から生まれた言葉です。

 あるときサウロが不思議な体験をします。彼はダマスコという町に向う途中で、彼は突然雷に打たれるような経験をします。(このときのことを彼は後にイエスに出会った出来事だと書いていますが。) とにかくサウロは目が見えなくなり、人々に手を引かれてダマスコまで連れて行かれました。そして、彼は弟子のアナニアにダマスコで出会い、アナニアはサウロに親しく呼びかけサウロのために祈りました。すると、目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり目が見えるようになりました。

 私達は今も多くの事柄を知らないまま済ませていませんか。もっと知らなければならいこと、考えなければならないことも沢山あるはずです。まだまだ、物事の真相を見極めてはいないのではないでしょうか。言うなれば、目にうろこがついたままでいるのではないでしょうか。または、自分の目にあるうろこに気がつかないでいるのかもしれません。

 復活祭を前に私達の目の前には”目からうろこ”が落ちるようなことが散りばめられているはずです。だから、私達はいつも人や物事に誠実に接し、その出会いに祈りと感謝を忘れずにいたいと思います。

教会学校のカルタ会
                                                     下津 ひとみ
 2月19日、日曜日のミサ後、教会学校でカルタ会をいたしました。
 カルタは、聖書の一場面を絵にした、子ども用のカルタです。
 塚本さんが、読み役、そして、子どもたちがカルタをとった後、それぞれのカルタの絵の説明もして下さいました。三人の博士の絵などは、どの子もよく知っていました。
 子どもたちは、とても楽しそうで、明るい声が、信徒館の中に響きました。そして、カルタ会の後は、お茶とお菓子を分け合いながらいただきました。
 今回のカルタ会には、今年の4月から一年生となる3名の子ども達の参加がありました。どの子も、教会学校の上級生たちの輪の中にすっかり溶け込んでいました。

 教会学校の新年度は、4月からです。新一年生は、多くの子たちの参加が見込まれるようです。私たちにとっても、教会学校の子ども達が、年々増え、皆が喜んで参加してくれる事が、大きな喜びとなっています。                         神に感謝

 多摩カトリックニューズ表紙へ戻る