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2007年6月号 No.406  2007.6.16

生きようとする意志 加藤 豊 神父
花を美しい・きれいだと思う「人」 石井 由利子  
洗礼を受けて ペトロ 豊嶋 健太

生きようとする意志
                                    加藤 豊 神父

 「生への畏敬」、それはおよそ信仰において「神への畏敬」とほぼ同義語となろう。聖書には、「神はご自分にかたどって人を創造された」と記されている(創世記1:27)。その意味で、「神への愛」と「隣人愛」は同一次元の律法だったといえよう。
 「生への畏敬」を公言した著名な人物としては、シュバイツァー(仏1875〜1965)の名を挙げることができる。彼は1952年にノーベル平和賞を受賞した。シュバイツァーによれば、「献身」と「自己完成」という両軸が倫理の核心であり、それらは別々のものではない。ガボンで生涯を終えた彼は後世「アフリカの聖者」と讃えられた。
 「いいようのない孤独にある現代人にとって確かなものは、生きようとする意志である。その生きようとする意志たち(他者)に取り囲まれた、生きようとする意志(自己)から、生(命)への畏敬が生まれてくる」とシュバイツァーはいう。彼はもっぱら医師として知られているが、同時に神学者、哲学者でもあった。彼の生き方はそもそも彼の信仰と不可分であった。
 「献身」と「自己完成」という両軸が倫理の核心であるなら、その反対は「支配」と「自己実現」という両軸であろう。もっともここでいう「倫理」とは、それが「いいことか」、「わるいことか」という善悪正邪を論じる学問の謂ではない。むしろこの場合重要なのは、どのような目的がわたしたちの心を占めており、どのような価値観や対人間観がわたしたちを動かしているか、なのである。
 年間3万人に及ぶ自殺者を出しているという現代日本社会の直中で、わたしたちはその現実をどう受けとめているだろうか。経済拡大が大前提とされる社会システムは当然のその役に立つか否かという基準から一人一人の価値を評価する。評価される側もまた同じ基準から自分の存在価値を計ってしまう。もちろんそれらが巨大な「嘘」であることは今や既に誰からも知られている。ところが一旦約束された「支配」と「自己実現」が虚構であっては困るので、「嘘」は守られ続けてしまう。そこでは何よりも確かなものであるはずの「生きようとする意志」さえ忘却の彼方へと追いやられ、居場所を失った人たちは、あたかもすべてを失ったかのような気にさせられる。
 イエスに由来する教会の価値観や対人間観は、おそらく現代日本社会のそれとは正反対であろう。人の「支配」ではなく、神の「支配」が待ち望まれ、人と人とが互いに仕え合い(献身)、「自己実現」を凌駕する「神の国の実現」を目指して皆それぞれに成長していく(自己完成)必要性がある、とされているからである。
 神の国の完全な到来のためには役に立たない人間など一人もいないと主張している(畏敬)限り、どこからどう見ても教会はこんにちの社会システムに反する「逆らいのしるし」に満ちているはずである。しかしその教会が、「人間として認めてもらえなかったような痛み」を負わされてしまった人たちに向けて独自の価値観や対人間観を提示出来ないままでいるのは何故だろうか。
 ふと窓の外を眺める。すると掲示板の正面でミサの時間をメモしている人の姿を時折見かける。しかし土日の主日、ミサで彼ら(彼女ら)を見かけることはない。気軽に門を叩けない何かを感じているのだろうか。それとも逆に、こちらから感じさせているのだろうか。教会とは何か、小教区とは何か、信仰とは何か、救いとは何か、それらをもう一度まじめに考えてみたいと思った。


花を美しい・きれいだと思う「人」

                                       石井 由利子

 「日本人が好む花の色に青や紫色がある。」と言われる。例えば、梅雨に咲く「紫陽花(アジサイ)」特に一重の青色の紫陽花は、日本的である。まだ助手 の頃、夏、英国で見たアジサイは、ピンク色、モスクワで見たアジサイもピンク系で、日本の青色の紫陽花を懐かしく感じた。紫陽花の花の色は、土壌の成分 で変化するのだ。

 5月のある日、東京・上野の国立科学博物館で開催中の特別展「花 FLOWER 〜太古の花から青いバラまで〜」を見学した。「人はどうして、花をきれいだと思うんだろう。」との問いかけ・・? お祝の花束、お見舞の花束、大概の人は花を見て心が和む。

第1会場の「花をつくる」では、花の色発現・花の育種に人生をささげた研究者達の業績を紹介。「青いバラ」「青いカーネーション:ムーンダスト」。その他、「ヒマラヤの青いケシ」。世界一大きい花「ラフレシア」の模型は、マレーシア・サバで実際に見た迫力は伝わらないが、見所満載の展示が続く。 「花おりおり」では、縄文、源氏物語の世界から、江戸の粋まで、日本人と花とのかかわりあいを紹介。いけばな、フラワーアレンジメントの展示も楽しめた。

 第2会場では、2007年、今年で、生誕300年を迎えるスウェーデンの植物学者、カール・フォン・リンネ(1707〜1778年)の業績を貴重な資料で紹介。リンネは、ツユクサ、ワスレナグサ、イチョウ・・、日本で見られる身近な植物にも学名を付けている。著書『自然の体系』初版の復刻本、自筆の手紙などの資料、興味深い展示である。

 御ミサの前、祭壇の「花」を拝見し、清々しい気持ちになる。私の名前は、母が「白い花」、「百合」が好きで、「由利子」になったそう。花の色は様々、どれも美しい。神様が創ってくださったものは、「すべてよし」。花を美しいと思う「人」も然りでありたい。


洗礼を受けて
                                    ペトロ 豊嶋 健太

 ぼくは今年の1月に皆に祝福されてこの世に生まれて来ました。そして4ヵ月後、
祐太兄ちゃんよりも3週間泣かない修行をしてから洗礼を受けました。
修行の甲斐あって泣かずに、祝福の時には笑って見せました。実は、
面白いから笑ったのではなく、嬉しかったからです。
多摩教会の一員になって、毎週教会に行こうと思ってもまだ自分じゃ行けません。
お父さんが、お兄ちゃんに「アーメン行こうか」と言うとお兄ちゃんは、
「アーメン行かない」って言ってます。ぼくは行きたいのにな。。。
早く「アーメン行く!」て言える様になります様に。
 洗礼を授けてくださった加藤神父様ありがとうございました。

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