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2008年1月号 No.413  2008.1.19

「生涯養成」「福音宣教」 加藤 豊 神父
希 望 星野 正道 神父  
心の質疑応答
加藤 豊 神父
マリア像の設置にあたり シスター・フローラ 畑田
故濱尾枢機卿様の思い出 遠藤 和輔

生涯養成」「福音宣教」

                             加藤 豊 神父

 生涯養成が教区の優先課題となっているこんにち、各地で様々な講習会が開かれるようになっています。多摩教会においても昨年は「信徒セミナー」(全三回)が実施されました。特にその第三回目は、典礼音楽家の新垣先生に講演をお願いし、典礼音楽について、またミサそのものについてお話しをしていただきました。これは本当に実り豊かなものとなりました。
 「生涯養成」というと、何故か知的な養成のように受け取られてしまい、とかく普段の信仰生活とはあまり関わりのないことのように思われがちです。実際「生涯養成」という名のもとにその実アカデミックな勉強会が行われていることもしばしばで、受講した人は、学んだことを具体的にどうやって日常に生かせばいいのかわからない、というのが本音であるようです。増して「福音宣教」などと聞くと、教会活動を越えた社会活動のようにイメージされたり、またはかつての「布教」のように理解されてしまう現実もあって、かなりの混乱も生じています。こうした不確かな部分をもっと身近な問題として実感していくためにも、引き続き実践的な「生涯養成」の場が設けられねばならないでしょう。
 ところで、すぐにも出来る、自分で出来る「生涯養成」があります。最新の情報を導入することも大切ですが、先ず、これがなければなりません。それは「自己理解」です。
 わたしたちの信仰は大きく分けておよそ三つの要素に根拠を持っているはずです。1)「わたしはこう思う」。2)「教会はこういっている」、3)「聖書にこう書いてある」です。これらを別の言葉で言い換えるなら、1)は「主体性」、2)は「社会性」、3)は「普遍性」、ということができるでしょう。たとえば、3)の「聖書にこう書いてある」という主張に終止するなら、それは単なる真理の確認で、大切なのはその真理を生きることなのですが、それには徹頭徹尾、社会性が伴います。その社会性を無視した場合、いわゆる原理主義に陥り、その恐ろしさはテロ事件に明らかです。2)の「教会はこういっている」に留まるならば、いわゆる教条主義に陥ってしまい、自己不在、イデオロギーの虜となってしまうでしょう。1)の「わたしはこう思う」だけで貫き通した場合、最終的に「聖書」も「教会」もいらなくなってしまいます。「こう思うわたしの信仰」から、その「土台」がなくなってしまうからです。だからこそ「聖書」を読むことが奨励され、教会は「新刊」を次々と出版するのですが、それらは知識のための知識ではなく、「救い」を巡ることなのです。ただし、すべては「わたし」において体現されてはじめて生きた信仰となりますから、「主体性」がなければ生きた信仰もまたないのです。
 上記の三要素に照らして自分を振り返ってみるだけでも、それは充分な「養成」となり得ることでしょう。要は「自己理解」なのです。わたしたちもちょっと振り返ってみませんか。
 更に、すぐにも出来る、自分で出来る「福音宣教」の推進があります。地域社会への働きかけを促す教会観だけが「開かれた教会」というわけではないでしょう。もとより教会とはわたしたち一人一人のことなのですから、その意味で生来自己中心的なわたしたち一人一人の心を自分の外側に向けて開くという、いたって単純なことが「開かれた教会」づくりです。
 「人類を愛することは容易い、隣人を愛することは難しい」とはよくいったもので、世界情勢や地域行政については敏感なわたしたちですが、隣に誰が座っているかを知りません。先ずは「隣に座った知らない人に声をかける」というのが「開かれた教会」づくりの第一歩だと思います。それが出来ないのに「福音的使命を生きる」というのは…。わたしも決して社交的なほうではないのですが、けれども見かけない人がミサに来ていれば、やはり気にかけるだけでなく、きっかけを探すでしょう。
 「生涯養成」、「福音宣教」、この二つは別々のことではありません。「これからは…」と未来を模索することも、逆に「これまでは…」と過去を振り返ることも、共に重要なことだとは思います。しかし最重要ではありません。むしろ「隣に誰が座っているか」という他者に開かれた自己意識、そこにポイントがあるのです。

希 望

                             星野 正道 神父

 神さまは信じる者がいつもご自分とともに生きるようにと信仰、希望、愛と言う三つの力をわたしたちの内に注いでくださいました。この三つの能力こそ聖霊がともにいてくださる証しです。イエスの言葉と行いを通して見えない神である父、わたしたちに命と人生と生活をあたえてくださる方に支えられながら生かされている証しです。この三つの能力は人間のあらゆる能力とともに働いているのです、とカトリック教会のカテキズムは教えています。
 神に希望を託するという能力は、わたしたちにキリストの約束に信頼するようにとすすめます。たとえば入学試験。一生懸命努力をすることは大切です。でもみんなが一生懸命やっているのです。だれだって願っていることはひとつです。しかし「希望」という力を神さまから頂いている人はどのような結果になったとしても、そこに神さまの意志を見ていこうとします。その人はたとえ自分の望みが思い通りになったとしてもその時味わっている自分の達成感が終着地点ではないということに気付きます。彼はこの結果をもたらしてくださった方のわたしへの期待は何だろうと考え始めます。だからこの結果をもたらしてくださった方に問い始めます。この人の神さまとの対話は自分が今、手にしているこのチャンスをどのように生かしていけば神さまの自分への期待が実現するだろうかと考え始めるきっかけになります。こうしてひとりの人の考えるという能力の中で神さまからプレゼントされた「希望」という力は働き、この人の人生を導き始めます。この時、彼は自分だけが称賛をゲットできてうれしいといったせまっくるしい閉塞的な喜びから解放されます。さらに、だれかが自分以上のよろこびをゲットしたら自分の出した結果はまたたく間に価値なきものになってしまうといった不安からも解き放たれていくのです。
 人は自分の希望がかなっても、かなわなくても、もしそれを自分の手に握りしめている時そこに地獄を見る、と言われています。反対に、わたしに命をあたえてくださった方はどんな出来事を通してもご自分の希望を実現なさると信じて行動し、考え始めたなら、人はそこに永遠を見ること間違いなしです。

 わたしたちのあらゆる人間的な能力の中で神を信じ、希望し、愛する力は働いています。
それを意識しましょう。

 自分の手の中に握りしめている望みとイエス・キリストの約束。どちらが確実でしょう。

“すべては過ぎ去る、ただ神のみとどまりたもう” (イエスの聖テレサ)

心の質疑応答

                             加藤 豊 神父

 宣教協力体発足をきっかけに、こんにちまで本当に色々な教会の色々な立場の人と話す機会に恵まれました。話題も様々です。ここではQ&Aのかたちでほんの一部をご紹介します。

Q,「わたしは○○教会で委員をしています。多摩教会は若い人が多くていいですね。最近うちの教会はめっきり高齢化して、昔のような活気がなくて寂しいですよ。若い人を集めるにはどうしたらいいですかねぇ」
A,「えっ、若い人って、どれくらい若い人のことでしょうか。それよりわたしには他のことが気になりました。もちろん、おっしゃりたいことも、そうお感じになるお気持ちも理解できるのです。しかしその小教区がどういう状態にあるのか、ということとは全く別に、いつも本当に大切なことを忘れず、感謝を怠らないようにしたいと思います。実際、何をもって理想の小教区の姿とするかは、実は誰にもよくわからず、一人一人のニードもかなり違っていて、随分と個人差があります。ただし、わたしたちがキリスト者である限り、キリストの共同体には、キリスト的理想が必ずあるはずです。年配者が圧倒的な小教区であれば、若い人を集める工夫以上に、それに相応しい仕方でキリスト的理想に近付くにはどうすればいいか、という視点から考えてみてはどうでしょうか。お祭り的な活気だけあれば即理想の小教区ということにはならないと思います。否、活気はむしろ信仰の現れであるはずですから、年齢や活動の多少に関わらず、現状からその共同体の善さを見つけ出し、それを育むことが重要です。今わたしは多摩にいるからこんなことがいえるのでしょうか。とにかく重要なのはそこだと思います」

Q,「神父さま、わたしは○○教会の信徒なのですが、あることがあって、もう教会そのものに行きたくないのです。こんな信仰ではいけないとわかっているのですが、どうしても辛いのです。どうしたらいいでしょうか」。
A.「教会というのは、どこにあるのでしょうか。わたしたち一人一人が『教会』です。しかも隣人愛の実践の動機は『義務』ではなく、『共感』です。大切なのは、誰もがキリストの救いに招かれている、という広い視野です。小教区の典礼や諸活動に奉仕できることは実際すばらしいお恵みですが、それが無理でも信仰生活そのものが無理だとは思わないでください。その分、聖書に親しんだり、家庭においてキリストを証しする生き方を心掛けてみてください。またそのうちに気持ちに余裕ができたらミサに出てお友だちに元気な姿を見せてあげてください。どうかわたしのためにも祈ってください」。

Q,「正直申しましてわたしは普段あまりお祈りしない不熱心な信者です。でも今は苦しいときの神頼みをしています。しかしいくらお祈りしてもまったく願いが叶いません。何がいけないのでしょうか」
A,「いけないことはないでしょう。でも『お祈り』とは何かをちょっと考えてみましょう。『お祈り』は、『お願い』とイコールではありません。二つを合わせて『祈願』といいますが、その言葉からもわかるように、『祈る』ことは『願う』ことだけではないのです」
Q,「では、どうして祈るのですか」
A,「祈りとは○○である、とか、著名な人たちが色々な解説を書いていて、本題よりも説明のほうが多いほどですが、ようはそれが救済行為だからです。そもそもイエスは折に触れていつも祈っておられましたし、またその弟子たちもよく祈りました。仏教だってなんだってそうでしょ。真宗門徒は親鸞聖人がそうしておられたから念仏を唱えるのでしょ。ただしキリスト者の祈りの特徴は、単に祈りの言葉を唱えるだけで終わらず、その内容を味わい、それを糧に生きようとすることでしょうね。たとえば『聖フランシスコの平和の祈り』を唱えた直後に敵対心をむき出しにするなんて極端な矛盾ですよね。でも人間にはそういう弱さもありますから、今度はそれを『神さまどうすればいいのでしょうか』と祈っていく、そうやって『祈り』はどんどん深くなっていく。もし、その願い事が明日にはその反対のものに変わってしまう一過性のものなら、ひょっとしたら叶わないほうが幸いなこともあるかもしれません。でも、いつまでも変わることのない本当に真剣な願いを祈るのであれば、それは必ず神さまに届いているはずです。どうかお祈りを止めないでください」。

Q,「先月○○教会で洗礼のお恵みをいただきました。それで相談なのですが、クリスチャンになったら先祖の位牌をどうすればいいでしょうか。所属教会の神父さまは気にしなくていいとおっしゃるのですが、前にある人から偶像崇拝に当たると聞いたことがあって気になります」
A,「病床訪問に行ってその家にお仏壇がある場合、わたしはそこのご先祖様に必ず挨拶しますよ。しかしそれは『万教同根』だからとか、加藤神父は柔軟だからとか、そういうことではないですね。そこが(亡くなった)その人の家だからですよ。イエスにとっては生きている人だけでなく、亡くなった人も含めて『人類』です、すべての人の救いのために主は世に来られました。どうして亡くなった家族を粗末にできるでしょうか。マザーテレサのことを思い出してみてください。あまり文化現象や習俗を『信仰』の本質的な問題としてとらえないほうがいいでしょう。ちなみにお仏壇やお位牌を直ちに偶像(idolum)と定義してしまうのはかなり幼稚な理解となってしまいます。わたし自身は、偶像崇拝と聞いてすぐに思い浮かぶのは、たとえば、神さま以上に「せけんさま」が絶対的な価値基準とされ、畏れ敬われてたりしますよね。そして本当に大事なものを見失う。それと、自分勝手な神さまイメージ(像)ですね。わたしだけの(他人はどうでもいい)神さま、という神さま像は、どれほど非福音的でしょうか」

マリア像の設置にあたり

                        シスター・フローラ 畑田

 主任神父様を始め、信徒の皆様の長い間の念願であるマリア像が多摩教会に設置されることになり、大変うれしく思います。
 マリア様はイエス様のお母さんとして世の母親と同じ思いでイエス様をみまもり、やさしく教え導かれたことでしょう。そのイエス様はマリア様の思いとは裏腹に、父なる神からの使命をはたす道を歩まれる時、マリア様には理解することのできない様々なでき事が生じました。
 しかし、マリア様はすべてのでき事をいつも心にとめ、思いめぐらしておられました。マリア様は私達の生活の鑑・模範であり、いつも見守り、助けてくださる方、イエス様に取り次いで下さる力強い扶助者であり、あたたかい心のよりどころ、つつみこんで下さる方です。
 かおり保育園の園児達もマリア様のご像の前ですなおにお祈りしています。ある日のお祈りから・・・「マリア様、お友達のKちゃんが病気で休んでいます。早く病気がなおりますように」と、目をとじて一心に祈っている姿はほほえましい。きっと教会の子ども達も喜んでマリア様のもとにきてお祈りすることでしょう。たのしみですね。
 それでも完成までには、主任神父様を始め、プロジェクトの皆様にはいろいろと大変なお仕事があります。聖霊の導きのもとで、すばらしいものになるよう心を合せてお祈りいたしましょう。
 そして、一人でも多くの人が教会をおとずれ、神様の子どもとなることができますように。又多摩教会共同体の上に、各信徒のファミリーの上にも、マリア様のあたたかい導きがありますように。!!

故濱尾枢機卿様の思い出

                      ヴィンセンシオ・ア・パウロ 遠藤 和輔

 1948年(昭和23年)の11月頃に初めて出会ったと思います。
その頃何も知らないでカトリック世田谷教会を訪ね、伝導師をなさっていた竹岡さんにお会いし、カトリックの勉強をしてみたらと言われ、通うことになりました。要理の勉強が半分ぐらい終わった頃、神父様が洗礼をと言っておられたと竹岡さんから伺い、自分ではまだ早いのではと思ったし、霊名も知らないのでと申し上げると、霊名は今田神父様が決められているとのことで、翌年の8月14日に洗礼を授かりました。
 その時のことを思い出すと、今田神父様に要理が半分しか終っていないと申し上げると、「信者になってから身に付ければ良い」と、すごく怒鳴られました。後で伺ったのですがこの事は、枢機卿様も洗礼については自分も同じことだったと言われましたね。
 濱尾さんと知り合って間もなく神学校に入ると聞き、驚きましたよ。商大(一橋大)に入学したばかりなのになぜなんだと、多くの青年たちも思っていたようです。今田神父様には沢山のことを教わり、また話もし、彼の神学校行きに付いても伺ったことはありますが、その当時は頭の良い人はそうなんだろうなと納得しました。入学後早々にローマへの留学が決ったと神父様からお聞きし、やはりすばらしい人なんだと思いました。
 その時、今田神父様から、直ぐに濱尾神学生に会って来いと命じられお訪ねしたとき、私に大変厳しい内容の話をされ「えんちゃん祈り続けるんだぞ!」とのお言葉が今も心の底に響いております。
 ローマから帰国後、枢機卿様が真生会館におられた時にも大変迷惑をお掛けしたりしましたが、その度に力添えを頂き、何とかやってまいりました。その後ヴァチカンに着任されてからは、毎年夏に帰国されるのでその度に多くの人と楽しい食事会を開かれ、私もいろいろお話をした中で、「えんちゃんは元気で若いな」と励まされ、何度か嬉しい思いをしましたが、昨年も8月に会が開かれ、最初の一言が「えんちゃん若いな!」で、とても嬉しかった。
 8月23日にヴァチカンに戻られ、直後に体調を崩され入院治療をされて、その後日本での治療を受けるとのことで帰国されたとの連絡が仲間からあり、枢機卿様のために祈り続けましたが、帰国後1ヶ月少々で帰天されたと知らされ、本当に残念に思っています。
 通夜に参列し、献花を捧げお顔を拝し、最後のお別れをしました。
                    

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