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2008年3月号 No.415  2008.3.15

わたしたちの死と復活 星野 正道 神父
幻想紀行 加藤 豊 神父
ポーランド・チェコの四旬節巡礼 岩藤 大和
ポーランドとチェコ巡礼10日間 藤田 令容
わたしたちの死と復活

                         星野 正道 神父

 3月の始めに一人のシスターが静かに息を引き取りました。78歳でした。同じ職場でいっしょに働いた方でした。長いこと地方都市の学校で校長をしていらした方でした。お付き合いは4年と短かったけれどキリストにおいてご一緒に仕事ができたこと、こころから感謝しています。
 彼女は20代の始めに修道生活への召命を受け、それに素直にしたがったようです。長崎の方で信者の一族の出身でした。15歳の高等女学校の生徒だった昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され被爆なさいました。そのころは子どもたちまでもが勉強どころではなく、毎日工場へ働きに行って武器を作っていました。そこでこの惨事に出っくわしたのです。その日、お父さんもお母さんもいっぺんに爆風の中へと消えて行かれたそうです。そして彼女は生涯、原爆手帳をたずさえて生きる人生を歩かなければならなくなりました。いつも白血病の不安におののきながらの人生になりました。これは自然災害ではないのです。人間の仕業なのです。15歳の少女はどんな風にこの事態を受け取り、自分自身に納得させたのでしょうか。
 彼女がこのような状況の中でどんなことを考えたのか、今となってはだれもわかりません。ただ、自分がこういう人生を生きなければならなかったことでだれかを責めたり、恨んだりということは一度も聞いたことかありませんでした。いつも生徒や学生の立場に立って彼らの問題と取り組んでいました。
 彼女の中で自分が生かされたと言うことに比べれば、傷つき病の不安の中を生きなければならないことは問題にはならないという、どこか悟りのようなものがあったのだと思います。だからこそ生かされている自分の残りの人生を神さまに一番よいように使って頂きたくて修道生活へ入ったのだと思います。原爆手帳をたずさえて生きる女性であるからこそ伝えられるキリストのメッセージがあることを実感していたのだと思います。彼女の講義を受けた学生たちは、平和についての講義は尋常ではない気迫があったと言っています。平和ボケの学生たちは頭をガ〜ンと殴られたような気がしたことでしょう。そして平和とは空気や水みたいに黙っていてもただで手に入るものではなく、つねに互いに愛し合い、解り合う努力をし、ゆるし合うことによってしかやって来ないことを彼女は伝えたのです。
 そしてどんなにつらい不幸な体験であっても彼女にとってそれ自体は常に中立であることを体験したようです。原爆手帳をたずさえての人生であっても、神さまはそれを十分に役立たせてくださることを彼女は知っていたのです。彼女がもしも自分の人生に悲観していたら彼女の人生はずいぶんちがったものになっていたことでしょう。しかし、彼女は自分のこの人生でなければ出来ないことを精一杯やろうと思いました。自分の人生から何かを取り去ってくださいとは願わなかったのです。
 彼女は恐れていたとおり、そして医学が説くとおりに白血病で亡くなりました。結果は原爆手帳をたずさえての人生に対して科学が断言するとおりでした。しかし、その限界づけられた人生をもって生きた彼女の一生は結果が決定するところを大きく越えていました。彼女の生きる姿はいつも予想される結果から自由でした。その自由さは入院するよりずっと前、修道生活を始めた50年以上も前から同じでした。
 わたしたちはだれもこの地上で生きる限り、その生は自分の死によって限界づけられています。しかし、それは今日のわたしの生き方が限界づけられているということではないのです。今日、精一杯愛によって生きたならば、そこに死が入り込む隙はないのです。死と復活とはずっと先の話しではなく今日の日常の問題でもあるのです。結果は人を拘束できないのです。いろいろな結果が出るこの季節、そんな大切なことをこの一人のシスターはいのちがけで教えてくれました。

 「愛と愛の作ったものは永遠に存続します」とはわたしたちの教会の確信です。
                     (第ニヴァチカン公会議 現代世界憲章第39項)

幻想紀行

                        加藤 豊神父

 2月25日(月)現地時間で19:00頃であったと思う。わたしたちはワルシャワ空港に着き、雨模様の中、バスに乗って宿泊先のホテルに向かった。ワルシャワの街は未だに歴史の中で負ってしまった痛手が生々しくもあり、近代的な建物群に第2次大戦中あるいは東西冷戦のさなかを見守ってきたであろう廃墟もあった。しかし、街全体としては、いわゆる娯楽の場は見当たらず、特殊な清潔感さえ感じられたものである。
 ガイドさんは日本語が上手な若く小柄なポーランド人女性、日本で生活していたことがあったらしい。お名前はマウゴジャダさんというが、とても発音しにくいので、添乗員さんに倣い、わたしたちも彼女を「マルちゃん」と呼ぶことにした。
 宿泊先のホテルはまだ新しく、観光客も多かった。地元のユダヤ人なのか、イスラエルからの観光なのか、頭上に「キパ」を乗せた人を多く見かけた。彼らは会議室に集まって熱心に祈りを捧げていた。
 2月26日(火)朝早くわたしはホテルの玄関の前で道行く人々を眺めていた。と、いえば聞こえはいいが、実際には、どの部屋もほとんど禁煙であるため、灰皿のある場所まで煙草を持っていったのであった。
 ワルシャワの街の中を早朝出勤の人たちが足早に歩いて行く。吐く息は白いが、ロングコートの人はほとんどいない。天気も曇り空だが、想像していたよりははるかに寒くはない。しばらくすると、添乗員さんがやってきて、マルちゃんも地下鉄の駅から歩いて来るのが見えた。
 「ヂェインドブリ!」(ポーランド語で「おはよう」あるいはこんにちは」の意)。ロビーでの集合時間となった。この目わたしたちは、聖十字架教会、聖ヨハネ教会(当地のカテドラル)、聖スタニスラウ教会を巡るために出発した。
 ミサは9:30から聖ヨハネ教会で行われた。もちろん少人教なので主祭壇を使うことはできなかったが、わたしたちがミサを捧げた聖堂正面には、大きな十字架のキリスト像があり、このご像の髪の毛は、その昔、
伸び続けていたという伝説があったそうである。それをある司祭が散髪したところ、もう伸びてこなくなったという。この説話の背後にある隠喩が何なのかは実はよくわからないのだが、ともあれ東洋の地のわしたちからすれば、ここもまた知られざる巡礼他の一つであったことに気づかされたのであった。ポーランドにはこのような教会が沢山ありそうだ。しかしながら、この国の人たちはたいへん控えめである。奇跡をセールスポイントにして海外からのお客さんを増やそうという企みは全く起こさないかのようだ。
 熱心ではあるがファナテイックな要素がまるでない、といえばいいのだろうか、何もかもが奥ゆかしく感じられた。この「奥ゆかしさ」は、わたしがポーランド人に対して抱いた最初の印象であり、旅行中、それは随所に見受けられた気がする。
 2月27日(水)一路バスでニエポカラノフに向かった。コルベ神父様ゆかりの地である。わかし自身は多摩教会で働いている以上、この日は教会のため、また自分の司祭職のために祈らずにはいられなかった。ニエポカラノフには日本人司祭も一人いるという。もちろんコンベントワール会であるが、その司祭とは以
前、仁川に居た西本神父であった。わたしは神学生の頃から彼を知っていたので、思わぬ再会となった。彼もまたかつて多摩教会の共同回心式に聴罪師として招かれたことがあったので、わたしたちの訪問を喜んでくれた。
 午後はジェラゾヴァヴォラでショパンの生家を見学した。内装修復工事とかち合ってしまい、残念ながら外観のみの見学であったが、静かでちょっと暗い感じの(いかにもショパン的といおうか)たたずまいであった。
 翌日はヤスナグラの「黒い聖母」の修道院に行くことになっていたので、この日の見学は以上であった。次なる目的地チェンストホヴァー(ヤスナグラ修道院がある町)までは当地から時間にして3時間半バスに乗らなければならない。夕食も到着したホテルで食べることになっていた。
 余談ではあるが、今回、旅行会社から行く先々のホテルヘの事前の伝達があったためか、食事はわたしたち向けに整えられていた。野菜も豊富であった。出発前にイメージしていたのは、「寒さ」と「こってりとした煮込み料理」だったのだが、いい意味でわたしのイメージは覆された。食べ物についていえば、ポーランド人の味覚は繊細で、味付けも決して濃厚というわけではない。と、わたしには思われた。気候や食べ物に限らず、ポーランド人の印象についてもう少しいわせてもらえるならば、この国の人たちは体格も特別大柄というわけではなく、人柄も実に控えめで、何より、まじめで勤勉に感じられた。まじめではあるが、頑固で我が強いわけでもなく(人にもよるであろうが)、愛想笑いはほとんどないが、しかし実際にはとても親切な人たちに思えたものだ。
 わたしの世代からすれば、祖父母の時代の日本人を思い浮かべる人がいるかもしれない。控えめで、真面目で勤勉で、表情は硬いが、根は親切であった時代の日本人を、である。そう、わたしたちが旅先で発見するものといえば、それらは結局、自国であったり、自分の故郷、ルーツであったり、自分が所属する共同体であるのかもしれない。そして、そのような旅はいわゆる「自分探し」と似て非なるものである。というより全く目的が異なるものである。なぜなら旅先で出会う自分の姿は、「かくありたい自分」であるどころか、回心せざるを得ないほど懐かしくも愛しい自分の真の姿であり、それは見知らぬ自分、忘れ去られていた自分だからである。きっとわたしたち一人一人は、「どこにでもいる誰か」であって、それは個性や独自性(人はもとより達っていて当たり前なのだから)といった現代社会が生み出した概念以上に尊ばれるべき実像なのではないだろうか。(次号に続く)。

聖コルベ神父様の足跡を訪ね
   ポーランド・チェコの四旬節巡礼

                          岩藤 大和

 四旬節はじっと春を待つ自然界がそうであるように、主の復活際前の「祈と償い・慎みの期間」、と常々思っており、海外ツアーは考えてもいませんでした。今年1月、「四旬節に行く聖コルベ神父様のポーランドとチェコ巡礼」のパンフレットを手にして、衝撃が走りました。それは、多摩教会の守護聖人コルベ神父様、アウシュビッツで身代わりとなって生涯を閉じる師の足跡を訪ね、人類が犯してしまった負の遺産を直視できること、ポーランド・チェコのひたむきな信仰と歴史・文化に触れられること、また巡礼中は同行司祭である加藤神父様のミサに与れることなど、四旬節ならではのツアーと感じたからです。今年の四旬節はこのツアーを「十字架の道行」に代えて、2月25日から10日間、巡礼の旅に夫婦で参加しました。
 巡礼3日目の2月27日、コルベ神父様が初代修道院長をされたニエポカラヌフ修道院を訪問。そこはワルシャワから約55Km、バスで1時間の所で、25ヘクタールの広大な敷地の中にあります。新聖堂正面にそびえる十字架と聖母像は、早春の日射しに輝いて我々を迎えてくれました。驚いたことに、多摩教会に来られたこともある西本神父様が4年前からここにおられ歓迎してくれました。
 大きな新聖堂を通り過ぎると、そこにはコルベ神父様がゼノ修道士と共に、1927年この地に最初に建てた木造の聖堂がありました。天井や床など創立当時のままに保存された聖堂で加藤・西本両司祭によるミサに与りました。ミサの中で西本神父様からこのニエポカラヌフ修道院と初代修道院長としてのコルベ神父様について詳しく聞かせて頂きました。
 聖堂には4人の肖像画があり他に3人、全都で7人の殉教者がここから福者にされ、コルベ師の列聖は日本で有名なこと。コルベ師はこの修道院を建てて後、1941年アウシュビッツで亡くなるまでのたった15年足らずの間に、多いときには772人の修道士の“母親のような”責任者となり、更に6年間は日本の長崎で宣教されたことなど・・・。
 この修道院には「コルベ神父記念館」があり、質素な机とベッドだけの師の部屋、印刷機や出版物・パネルなどの展示を西本神父様の案内で見学しました。
 巡礼6日目、3月1日には世界遺産アウシュビッツ強制収容所を巡礼しました。ここの悲惨さは目を覆う物ばかりでしたが、「コルベ師の生き方の延長線にアウシュビッツの身代わりがあった。」との西本神父様の言葉を思いだしました。そして多摩教会守護の聖人・コルベ神父様は、命を燃やし愛に捧げ尽くす生涯の生き方を、この巡礼の旅で私達に示されているように思いました。

四旬節に行<聖コルベ神父様の
   ポーランドとチェコ巡礼10日間

                    マリア・セシリア 藤田 令容

 大いなるお恵と感謝の内に2月25日成田空港を出発いたしました。一行はパリー経由でポーランドの首都ワルシャワに着き、翌日世界遺産歴史地区巡礼をし、夕食は、民俗舞踊を見て、その日は終わりました。
 翌3日目は主題のコルベ神父様のゆかりの修道院でのミサの後、ショパンの生家を訪ね、ミニコンサートの後バスに乗りポーランド南部に位置するチェンストホヴァーヘ向かいました。チェンストホヴァーはヤスナ・グーラ修道院への巡礼が目的です。ヤスナ・グーラ修道院には、聖画「黒いマリア様」がいらっしゃいます。出発前からこの巡礼の最も期待していたところの一つでした。
 バスに乗ってから約190Kmの道のりを3時間30分、ようやくチェンストホーヴァーに到着しました。チェンストホーヴァーはポーランドの南部にあり、人口30万人の街です。標高293mの丘の上には、修道院の建物と高い塔が夕暮れの中に霞んで見えました。翌朝早くヤスナ・グーラ修道院への巡礼の開始です。
 ヤスナ・グーラとはポーランド語で「光りの丘」の意味です。その通りヤスナ・グーラ修道院の建物は、105mの塔と共に朝日に光り輝いていました。ホテルの前がすぐ丘へ昇る「聖マリア通り」と呼ばれる巡礼の道で、毎年8月15日の「マリア被昇天祭」にはポーランド中から徒歩で訪れ、(遠いところからはニヶ月もかかるのだそうですが)巡礼の人でいっぱいになるそうです。なだらかな広い道を登って行くと、芝生の見渡す限りの広い庭が、正面に現れました。庭の向こう側は、半円を描くように「十字架の道行き」の石像が取り囲んでいます。そのまま進んで行きますとようやく僧院の入りロ、塔の下に着きました。門をくぐり更に進むと僧院の屋上のようでした。ふと見ると右下に緑の林があり、緑の林に沿って「十字架の道行き」の台座付きの立派な銅像が建っていました。道行は全部で14の場面がありました。私たちは一場面ごとにゆっくり見て周り、ふと我に返ると「十字架の道行き」のお祈りも忘れて、見入って終わりました。今日のミサはどの祭壇で行われるのか、二人のガイドが折衝に行っている間、私たちは暫し感動のあまり、ただ呆然と待っていました。すると興奮冷めやらぬ二人のガイドが、ミサは「黒い聖マリア様の祭壇」で行われる許可が下りたと、伝えてきました。一同はこのお恵みに心から感謝と感動を覚えました。
「黒い聖マリア様」は「黒いマドンナ」とも呼ばれ、聖ルカが糸杉の板に聖母マリアを描いたと言われています。糸杉の木材は黒いのです。16世紀にパウロ神学者たちが奉納したと言われていますが、伝説に寄りますと、ポーランドのある貴族が大金を支払って聖画「黒いマドンナ」を手に入れ、自分の城に持ち帰る途中、この「光の丘」に差し掛かった時、急に重くなり運ぶことが出来なくなりました。そこでマリア様は「この地をお望みである」と判断して、この修道院に安置されたそうです。当時のポーランド国王のヤン・カシミールは「聖母マリア」はポーランドの女王であると宣言し、この修道院を“勝利の丘”とまで称えました。このヤスナ・グーラ修道院は「ポーランド国民の精神の首都」とまで呼ぱれ、ポーランド分割期間(1772〜1918)も、祖国統一の悲願の象徴となりました。このマリア様をポーランドの人々は「超聖マリア」 と呼んでいるそうです。
「黒いマドンナ」はこの修道院の中にある「バジリカ教会」の中心的な祭壇にあります。この教会の中には「聖コルベ神父」の祭壇もありました。この教会の中、まして「黒いマドンナ」の祭壇でのミサが許可されたのですから、なんと言ってお意みに感謝したら良いでしょうか! ミサが始まるまでの間に、白い修道服を纏った丸顔のにこにこした修道士が来て教会の周りにある博物館や宝物館を案内してくれました。博物館にはヨハネ・パウロ2世のミサ用衣装を始め、寄贈された「黒いマドンナ」の宝石を散りぱめた豪華な立体的なご衣裳が何着もありました。病を癒された人や脚なども癒されたのでしょうか 松葉杖や義足、義手などもとてもたくさん展示してありました。
 いよいよ感動の内に、ミサが始まりました。「黒いマドンナ」の祭壇の前にミサに与る為の席が何列かありますが、その向こうは鉄の柵で仕切られていて、一般の巡礼の人々が大勢、私たちと共にミサに与っていました。閉祭の歌、“あめのきさき”を歌ったとき、周りにいた人々も一緒に声を合わせて歌いました。夫々のお国の言葉で・・・。感謝と感動の内に無事にミサは終わりました。
「黒いマドンナ」は日に何度かミサの度ごとにご開帳され、その度7本のトランペットと小太鼓によるファンファーレが奏されます。案内をしてくださった修道士が、そのトランペット奏者で、それを見せて上げようと祭壇の二階へ案内してくれました。そこはまるで劇場の二階席のようでもあり、また桟敷席のようでもありました。オルガンも祭壇の正面に当たるところにありました。ファンファーレが終わると8人の修道士たちはにこにこと立ち去りました。
 最後になりましたが、「黒いマドンナ」には頬に、二筋の傷があります。昔盗賊がこの「聖母」を盗み出そうとしたところ、突然重くなり運べなくなりました。激怒した盗賊は「マドンナ」の頬に斬りつけました。頬からは二筋の血が流れ、盗賊はびっくりしてそのまま逃げ去ったという事です。「黒いマドンナ」は、レプリカも、小さな御絵も、みんな頬には二筋の傷があるのはその所為です。
 まだまだ巡礼の旅は、感動と衝撃を伴って続きますが、また機会がありましたら、ご紹介することと致しましょう。                                  神に感謝。

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