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2008年4月号 No.416  2008.4.19

わたしたち人間の間で起きたこと
加藤 豊 神父
幻想紀行(2)
加藤 豊 神父
ごきげんよう、多摩教会のみなさま 星野 正道 神父
洗 礼 片山 大輔
洗礼式を受けて 富山 恵、 崔 世羅・せりん
洗礼式を終えて 若林 知子・ゆり
若林知子さんの代母として 才所 良江


わたしたち人間の間で起きたこと

                          加藤 豊 神父

 「人間は万物の尺度である」。古代ギリシアのある賢者がいっていた言葉です。言い換えれば「あらゆるものは人間のかたちをしている」ということです。「あらゆるものが」です。すなわち、生も死も命も人生も社会も。更には人間以外の生物、動植物や無機物も。これこそまさに人間の「主観」が成せる技です。しかしこの「主観」の担い手である人間の意識がどれほど「相対的」なものであるのかを、人間は常に忘れてしまうのです。それゆえ人間と関わるすべてが人間の間尺に合うように理解されて行きます。人間そのものでさえもです。
 イエスの時代、当時ローマ帝国は北アフリカから遥かブリテン島までを配下に置き、逆らう者には「みせしめ」の公開処刑を余儀なくしました。中でも十字架刑は極刑で、「国家反逆罪」に適応されていました。不条理なのは、イエスがその大帝国に楯突いたわけでもなく、なんとローマ側にもその事情がよく解っていた、ということなのです。それにも関わらず強行された十字架刑こそ、イエスによる人類あがないの神秘であったということに後から弟子たちは気づいていったのです。
 去る四旬節、わたしは巡礼同行のためポーランドに行ってきました。その時、アウシュビッツ強制収容所痕も巡ってきたのですが、そこでわたしが感じたことは、人間には「人間のかたち」を他の人間に強制してしまう危険、あるいは、そこに収まらない人を「違う人間」として扱ってしまう危険が常に付きまとうのであろう、ということでした。ナチスを批判することだけでは済まされない何かを感じたのです。人間である限り、あれは他人事ではなく、あの悪夢に無関係な第三者はおそらく一人もいないのではないか、と思うのです。
 たとえば、ナチスが選挙で(つまり民主主義で)第1党となった背景(不正な選挙ではありましたが)には、ドイツの社会主義化を食い止めるために資本家たちが多額の政治献金を支払っていた経緯があったでしょうし、その点では、やがて「赤狩り」に向かって加速して行くことになるアメリカ合衆国も、この事件の外にいたとはいえないと思います。増してわたしたちの日本はそのナチスドイツと「日独伊」同盟を結んでいたのです。
 アウシュビッツは、わたしにとってまさに「十字架の道行き」でした。不当な裁き、「人間の尊厳」の剥奪、その結果生じた「人間に苦痛をあたえるための人間による最新の科学研究」、「みせしめ」の死刑。それらは「人間」であるところの「わたし」の「罪」の歴史のひとつであるのは間違いないことです。胸を抉られ、何も言葉が出てきませんでした。
 この「罪」というものの理解が幼稚だと、まるでそれを「違反」や「悪事」や「過失」のようなものと考えてしまい結果的に、潔癖な人や完全主義な人がちょっとしたことに神経を尖らせたり、他人を裁いたりしてしまうことかありますが、そうしてしまうのは「自分」と「人間」とを分けてしまうからで、自分は相手とは違う人間になれるというファリサイ派的な発想があるからではないでしょうか(実際「ファリサイ」とは「分ける」という意味です)。どこまでも「人間である自分」を「自分の自己意識」しだいでコントロールし得るという気持ちが、です。だとすればそれは「強い支配欲が自分の内面に向いただけ」のことで、回心とはほど速いものでありましょう。しかし「存在」と「働き」は無関係ではないはずですから、「対人間観」はそのままなのに、その「行い」だけを浄めることに気を遣うのは矛盾です。その種の支配欲は、周囲の人を巻き添えにし、他人に重荷を負わせ、苦しめてしまうのです(ヨハネ福11:37-44)。
 聖書は語っています。「人は神にかたどって創られた」と(Ge.1:27)。そのようなわたしたち人間の「神の子性」を回復するために、イエスは十字架を背負ってくださいました。だからご復活の喜びは薄っぺらなものではありません。それは「啓示の充満」。神の側からの決定的な回答すなわち「神の子性」は「人間性」を支える基礎であるという、この上ない「人間性」(神のかたち性)の回復と、そこに重ねられた再創造のメッセージです。
 イエスの受難と復活は、わたしたち人間の間で起きたことです。だからわたしたちが、「自分は他人とは『違う人間』だ」と考えるなら、「十字架の出来事」をも他人事として見てしまうことにもなり、それがいまの自分の悩み苦しみと直接結びつかないものとなってしまうでしょう。
「神の子性」という土台を喪失した「人間」の行いと、それによって殺されてしまった多くの人たちのために、わたしたちにはいま「同じ人間」として何が出来るでしょうか。それは差し当たり、もう悲劇が繰り返されないようにと、イエスをとおして神に祈り、働いていくことであろうと思います。今年の復活祭でもまた、イエスはご自分の復活と共に、「絶えず死に曝されてしまうあまりにも儚い人間性」を、わたしたちの間で復活させてくださるのだ、と信じることであろうと思います。


幻想紀行(2)

                            加藤 豊 神父

 2月28日(木)チェンストホヴァーのホテルをチェックアウトし、「黒い聖母」で知られる「ヤスナグラ修道院」を巡る。いま振り返ると、今回の巡礼団にとってこの「ヤスナグラ」が一番印象に残っているのではないかと思う。その理由の一つとして挙げられるのは、何より、わたしたちはまさにこの日タイミングよく「黒い聖母」の聖堂でミサを捧げることが出来たからである。実際、現地でもそのようなことは希であるらしい。もちろん巡礼客用に予約できる別の聖堂はしっかりと設けられている。だからわたしたちも当初はそちらでミサを捧げるはずであった。しかし、案内係の修道士さんの計らい、巡礼者へのお気遺いもあり、わたしたちはいねば「関係者以外立ち入り禁止」のような領域に入った。こういうことは「いくら払えば」という交渉で決められるわけではない。しかも、ポーランドは、よくも悪くもお金で動く国ではないのだ。だから通過ユーロの徹底も遅くなるだろう。その点、実利性を重んじるチェコとは対照的であるといえよう。この日の嬉しいハプニングも畢竟「人のやさしさ」によるものであった。
 それにしても観光地(あるいは巡礼地)然とした聖堂が、しっかりと現代に機能しているから驚きである。その背後には必ず地元の人たちの信仰が息づいているはずだ。教会が形骸化せず生きているのである。
 2月29日(金)ポーランドの古都、クラクフを巡る。クラクフ旧市街は日本でいえば京都である。事実[クラクフ」と「京都」とは姉妹都市である。「ワルシャワ」は「浜松」と姉妹都市であるらしい。理由はわからない。けれども、クラクフと京都とが姉妹都市であるというのは「いかにも」という気がした。
 ポーランドは東西でいえばドイツとロシアに挟まれていながら、決して大国指向ではなかったために、随分と他国から痛い日に遭わされた。北からはスウェーデンによる襲撃があったし、南方には血気多感な騎馬民族(マジャール人など)が控えていた。遠く東アジアからはモンゴルが襲ってきた。近現代に至ってはナチスに占領され、戦後はソ連の衛星国にされていた。そして今や徐々に西側の市場にされつつあるのだが、逆にポーランドが他国を痛い目に遭わせたという話は聞いたことがない。
 クラクフ旧市街では高い塔から時刻を知らせるラッパが吹かれるが、そのメロディーは明らかに途中でわざと終わらせている、それは聴いていてわかる。ガイドさんの話によれば、その昔ラッパ奏者が、演奏中にタタール人の矢に倒れたその時点で音が途切れてしまい、なんとその時の演奏をいまも再現しているからとのことだった。
 もっとも「古都」とはいえクラクフの歴史の幕開けは比較的新しい。この国の古代史はいまだに神話のベールに包まれている。「ポラーニエ族よりも古くから住んでいた住民については?」という、わたしの質問に対し、ガイドのマルちゃんは、「大昔この地に暮らしていた人たちは『おとなしい人たち』でしたjと答えてくれた。わかる気がする。
 こんにちのわたしたち日本人は、自分でもまったく無意識のうちに、その精神的価値観においてさえも、あまりにも西側諸国の影響を受け過ぎてしまっているのではないだろうか。そう、わたしたち日本人は「西側」の影響化にあってそれに無自覚であろうと思う。たとえばこの日の午後わたしたちは「フアウスティナの修道院」を巡ったが、「修道生活における接神体験」といった場合、日本の教会の多くの人が大テレジアのそれを思い浮かべてしまうのではないだろうか。しかしそれは、やはり西側の霊性であって、東側は、西とはまったく社会の事情も、人間も、その感性も、いうまでもなく精神性も異なっているのだ。
 また、ポーランドには日本人が抱き勝ちな「舶来趣味」を満たす演出も、そのような感覚にわたしたちを現実逃避させてくれる舞台装置も用意されていない。そういうもの(たとえば荘厳で非日常的な儀式や壮大な建築物)ではなく、むしろ目には見えにくい信仰の本質と、その信仰者の無理のない原寸大の日常生活とが不可分であるような社会がごく普通に営まれている。
 3月1日(土)アウシュビッツ強制収容所痕を巡る。ここはまさに「西洋の没落」がその果てに辿り着いた狂気であり、それが生々しく刻まれている場である。各部屋を順番に(囚人コルベ神父様の部屋も)回ったが、わたしにとってそれは「十字架の道行き」そのもののように思われた。二度とこんなことがあってはならない。と切に願ったが、だが、もし、自分が加害者の立場に立たされたなら、また、もし、そこで管理職に就かされていたなら、と思うと、「全部ナチスが悪いんだ」では済ませることができないものがある。この悲劇に無関係な人間は、人間である限りいないのではないだろうか。しかも日本はそのナチス指導の第三帝国と「日独伊同盟」を結んでいたのだ。アウシュビッツで眼にするものは、これ、「人間存在」であるところの「わたし」の罪であった。 「わたしはそんな人間ではない」といってすべてをナチスのせいにすることもできる。それでとりあえずわたしたちの自己意識は安定もする。ファリサイ派はそのようにした。そして彼らは自己正当化だけに気を配った。また、後の世界では、そうではなかったはずのキリスト者が「罪」をまるで「違反」のように考え始めてしまった。そしてキリスト者の「ファリサイ派化」があっという間に進んでしまった。それこそは大きな過ちであろう。自分の人間性はそのままなのに、それでいて、やってしまったことを浄めるためには神経質なまでに注意を注ぎ、隣人愛よりも自分の潔白さを重視したファリサイ派は、「エゴイズム」という観点からは「罪人」や「徴税人」以上に罪深く、やはり不味いといわざるを得ない。いずれにじてもこの日のわたしはそうとうノックアウトされていた。いま思い出すだけでも胸が痛い。
 さて、午後はヴァドヴィゼにある前教皇ヨハネ・パウロニ世の生家を見学した。また、ヨハネ・パウロが幼少期を過ごした小教区でのミサ。その教会も先述の例に漏れず、移り変わる時代のなかで相変わらずひとつの小教区として運営されている。その教会の「小教区性」が一貫して保たれ、教会が自立的に生きているのである。その前提となる要素、それはいうまでもなくその小教区を支える地元の人たちの信仰である。
 前回もお話ししたことであるが、おそらく「わたしたち一人一人は、どこにでもいる誰か」なのであって、旅の行き先には常にもう一人の自分が待っている。確かに「個性」や「独自性」という言葉は一見魅力的であり、「あなたはあなたでいいのよ」というのが現代心理学において重要なキーワードとなっている。また、全体主義が恐ろしいものだということは、わたしたちの国でも体験されてきた。そしていまもなお、否応なく他人や社会に流されて自分を見失っている人たちは沢山いると思うし、転じて自分の個性や独自性を深しに出かける人も沢山いるであろう。ところが実は、そういう「思考パターン」じたいがそもそも増々深みに嵌ってしまう「罠」であったりする。自分の「向き」「不向き」の識別でさえも「かくありたい自分」が物差しになってしまうからだ。
 「ナチス政権下」の後は「ソ連弾圧下」と続き、これまで散々に全体主義の恐ろしさを熟知させられてきたポーランドだからこそ、この国では、個性や独自性の強調は「詰まるところ抑圧の反動であり、全体主義における自己実現の要求と根は同じものに過ぎない」ことが見抜かれているのであろう。だからこそ、この国はきっと「どこにでもいる誰か」が尊ばれるべき人間の実像であることに気づかせてくれるのであろう。バスの中で度々ガイドさんがポーランド語を紹介してくれたが、加えていうに「でも、ポーランド語は覚えてもあまり役に立ちませんから…」。それが「いかにも」ポーランド人的な発言に思えてしまったのはわたしだけではなかったろう。今回わたしたちのガイドを務めてくれたマルちゃんに、この場をお借りしてあらためて「ヂェインクイェン!」(「どうもありがとう」の意)。わたしたちはチェコヘと旅立った。(次号に続く
)


きげんよう、多摩教会のみなさま
                          星野 正道 神父

 美しく咲き急ぐ多摩丘陵の桜に見送られて多摩教会とお別れして半月ばかりが過ぎました。今でも立川教会へ行くために仙川駅のホームに立ちますと、思わず橋本行きの電車に乗りそうになって苦笑しております。それだけたくさんお世話になったことの何よりの証しです。加藤神父さま、信徒のみなさま、シスターのみなさま、こころから感謝申し上げます。これからもたくさんの人々をみなさんはお迎えになることでしょう。その時、わたしのようなものにまでお示しくださいましたあのあたたかい心を訪れるすべての方々に差し出してください。そのようにして福音宣教の実りを天の父にささげてください。お願いします。
 同じ東京教区で働いております。きっと、またどこかでお目にかかれますね。それまでどうぞお元気でお過ごしください。何かの祈、思い出していただけた時に、弱いわたしが司祭職を全うできますようお祈りいただければ幸いです。こちらからもお祈りを送ります。ありがとうございました。ごきげんよう。


洗 礼

                           片山 大輔

  きっかけは2年前友人に、プロテスタント教会のクリスマスに、嫌々ながら連行させられた事でした。当時の私は宗教に全く無関心、無知でしたが、ミサを眺めていると、漠然と神聖な美しさを感じました。それが始めての神様との関わりだったと思います。
そのことを事あるたびに思い出していました。
 ただ世間様に合わせ何となく生きてきた私は、自分白身の根本的な柱が欲しく、それを期待し、夏から教会に通い始めました。入門講座やミサに参加し、“自分が何をしている時でも神様が共にいて下さる、必ず何とかして下さる。(勇気のいる)アクションを起こすときに神様が背中を押して下さる“そんなメッセージが心強く入信することを決めました。
 洗社に初めは反対していた家族も納得し準備が整った。それからが大変でした。情けない話ですが、洗礼が近づくにつれ興奮が高まり、カトリックの事をもう一度深く考え、「十戒や五つの掟など俺は守れるのか?こんな自分でもいいの?」。馬鹿正直に教義を吸収しようとした為、うれしさよりも不安が大きく
なり、数週間前になって洗礼を受ける事も考え直しました。
 その後、教会に通う以前の生活を2週間程してみましたが何となく心細く、ありのままの自分を神様は愛して下さるという事を再度確認する事ができ、皆様に温かく見守られる中、復活徹夜祭にて洗礼を授けていただきました。
 今後は信仰と日常生活とのバランスをさらに養い、キリスト者として生活していきます。共同体の一員になる事が出来、感謝の気持で一杯です。できる限りの奉仕活動をしていきたいと考えております。
 最後になりましたが、ここまで至るまで支えて下さった皆様、代父になってくださった中村さん、そして個人的な相談にものっていただき、私をここまでお導き下さった加藤神父様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。



礼式を受けて

                           富山 恵   
                           崔 世羅・せりん

 復活徹夜祭の3月22日、二人の娘と共に洗礼を迎えるこ とが出来ました。皆様から本当に暖かい祝福をいただき、とてもうれしく思い、感謝しております。今まで全くカトリック教会との接点の無い私だったのですが、信者である主人との出会いから始まり、いろいろな出会いを経て洗礼を受けるまでに至りました。これら全てはイエス様のお導きあってのことと思っております。
 洗礼式を終え間もないある日のことでした。長女世羅(4歳)と、次女せりん(2歳)が遊びの中で「『感
謝』持ってる?」「『感謝』をあげるよ」「『感謝』をもらったよ」などと二人でやり取りをしていました。彼女たちが『感謝』と言っているのはブロックだったり、空想のものだったりしました。『洗礼』を理解するにはまだまだ幼く、ましてや『感謝』が何かすらわからない二人ですので、素直な彼女たちの心がイエス様を近くに感じていたのかもしれません。
 私も娘たちと一緒にいつもイエス様を感じていられるよう、洗礼のお恵みをいただいたときの喜び、暖かく感謝にあふれた気持ちを大切に、これからももっともっと多くを知り、多くを考え、祈りをより深い ものにしていけるようにと思っております。
 最後になりましたが、私たちをここまで御導きくださいました加藤神父様、私の代母をお引き受けくださいました全ソンギョン様、娘たちの代母をお引き受けくださいました大塚真美様、そして、たくさんの祝福をくださいました皆様に心から感謝申し上げます。また今後ともご指導のほど宜しくお願いいたします。
 神に感謝


洗礼式を終えて

                         セシリア 若林 知子
                         ジュリア 若林 ゆり

 私は1年で4入もの大切な人を亡くし、鬱病となり現在も薬をのみつづけています。いつも“死にたい”“楽になりたい”そう考えながら仕事を続けた為、仕事はもちろん家事ひとつ満足にできなくなりました。ある日、教会に来て見たらと才所様からお誘いがあり一昨年の1月、始めて教会の門をくぐりました。
“イエス様はどんな人でも受け入れてくれるのよ”“勉強会に参加して洗礼を受けなさい。神の子(兄弟)になりましょう”そしてわたしの教会通いがはじまりました。勉強会の皆さんは温和で新しく入った私にとても親切で、明るい笑顔いっぱいでした。加藤神父様のお話しはときに笑いあり、分かり易く、いつの間にか土曜日の講習が習慣になりました。通信教育で“生きること死ぬこと”を受講しながら、家では “主の祈り”“朝夕の祈り”“家族の折り”を唱え、自分自身を見つめ直しました。もしこの誘いがなければ、私は死んでいたかも知れません。しかし病気は神様がくれた“命の大切さ”ということをわたしに送ってくださったメッセージであったと思います。そして私自身イエス様との出会いも、才所様がお声をかけてくれたことも“偶然”であったかもしれませんが、わたしは“必然”であった気がします。
 今回の洗礼式は次女も受けることとなりました。“主の折り”は、毎日私の横に座りすべておぼえてしまいました。難しい言葉や意味をどのくらい理解できているのか分かりませんので、洗礼を受けることはまだ先と考えていましたが、本人の受ける気持が変わらない、そして素直でまだ真っ白い心のうちに受ける
こととなりました。洗ネL名も自分で選ぶなど、彼女の意思をできるだけ尊重しました。
 洗社式を終えました今、セシリア、ジュリアの名前をいただき、多摩教会のひとりとして皆さんとともに歩んでいきたいと思っています。宜しくお願いします。最後になりましたが、代母として洗礼のお世話になりました、才所様、内山様、たくさんの兄弟の皆様、どうも有り難うございました。


若林知子さんの代母として

                         ヨゼフィナ 才所 良江

 若林さんとは同じ職場でずっと以前から面識がありましたが、思いかけず「才所さんの教会に行きたいので、連れて行ってください。」と声をかけられて急接近することになり、あっという間に一年が過ぎ受洗の運びとなりました。
 定年後、再就職の私同様の職員が多い中で、若林さんは若手で有能なナースとして嘱望されている人です。私も彼女には教えられることが多く尊敬の念を抱いておりました。
 どのようにして受洗の方向へ・・・・・・と私が思案をする間もなく彼女は自ら職場の上司に掛け合って土・日を休みにしてもらい入門講座に通い始め、御ミサにも必ず出られるように決めました。
 週末になると彼女の方から必ずメールが届き、私の勤務に合わせて土曜日の夕か日曜日の御ミサに私といつも一緒に与り、帰りにはその日の神父様の講和について、聖書のこと、信者としての心得などを話題にしながら彼女の自宅までのドライヴはとても楽しいものでした。
 普段からすれちがいの多い職場なのでどうしても仕事のことや、上司の批判話などにも花が咲いてしまうこともありました。
 看護と介護の仕事は大変に疲れ、月4・5回の夜勤後の休日になると自宅でのびてしまったりで、私は、この近年は御ミサをお休みすることが多くなっていました。神様はきっとお許しくださいます……と、独りよがりな自宅でのお祈りに代えたりしたことも度々ありましたが、若林さんとのこの一年間は、神様からの特別なお恵みを頂きました。心も体も元気になり、私の方こそもっともっと信仰深く熱心にならなければ・・・・・・との思いが湧いてきて、この一年の間、御ミサを休まず続けられたのです。
 若林さんとゆりちゃんの受洗を心から神様に感謝して、また、教会の皆様に支えられていることを今さらのように深く胸にきざみ、感謝いたしました。
 これからは、若林さんと本当の母娘のように仲良く、そして教会を休まず訪ねて、信仰を益々深めていきたいと思います。

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