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2008年5月号 No.417  2008.5.10

聖霊降臨と四十九日
加藤 豊 神父
幻想紀行(3)
加藤 豊 神父

聖霊降臨と四十九日

                          加藤 豊 神父

 今年は「復活祭」が3月23日と早かったので、当然「聖霊降臨祭」も5月11日と早くやってきました。ちょうどこの両日は「新入学」と「衣替え」の季節に当たります。復活祭の頃、春は始まり、世の中では新しい世界に旅立つ人たちが、そこで新しいドラマを繰り広げるようになります。そしてその人たちの半袖姿を見かけるようになるのは、ちょうど聖霊降臨祭の頃でしょう。
 ところで、復活祭のルーツが「過越祭」であるように、聖霊降臨祭のルーツもまたユダヤ教の祭日である50日祭すなわち「五旬祭」でした。ですから復活祭を1日目に数えれば、聖霊降臨祭は確かにその50日目に当たるわけですが、ということは当然、初日から49日間待った後にやっと当日を迎えたことになりますよね。「四十九 日」です。
「四十九日」と聞いて、「えっ?」と思われたかた、いらっしゃると思います。いうまでもなくキリスト教の習慣に(勿論ユダヤ教の習慣にも)「四十九日」などありません。また、あらかじめお断りしておきますが、相互に内容的な関連性も全くありません。とはいえ、ここではちょっと文化人類学的な視点からこの偶然を眺めてみることにしましょう。
 イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊の降臨という出来事を、どうかわたしたち自身の日常生活に当てはめて考えてみてください。 人生はこれ、受難と復活の繰り返しであることを想うなら、その先にある「終末」への想いもまたキリストの死と永遠の命に結ばれていくことでしょう。
 わたしたちは愛する家族や友人たちとの死別を経験し、心が悲しみでいっぱいになることがあります。どれほど来世の生や永遠の命を信じていても、別れが悲しいのは事実です。そのようななかで、当初、亡くなった人がなんだかまだ生きているような気持ちになったりもします。その人が亡くなったという実感は薄く、まだこの地上のどこかにいる気がしてくるのです。それが会社の同僚であれば、また翌朝ひょっこり「よう!」といって出勤してくるような気がしてならないのです。そうこうするうち「ああ、そういえば、あいつ、もう…」と次第に実感が伴ってくる。更にそれがご身内であれば「おまえ最近、なんだか死んだおじいちゃんに似てきたなあ…」とか、亡くなった人がわたしたちの間で生きはじめていることに気づかされていきます。そしていよいよ亡くなった人の思い出が、自分の思い出とひとつになり、それが自分の出来事として受け取られたとき、人は「命の連続性」に繋がれ、生死を超えた「永遠の命」の次元へと開かれていくのだと思います。
 こういう一連のプロセスには(人によって差はありますが)およそ40日から60日かかるというお医者さん がいましたが、これは「四十九日」に通じています。そうです、この数字は特定の宗教や神話以前に根拠を持ち、人種や民族の別なく古代社会の死生観(終末観)から浮上してきたものであるという見方ができるわけです。こうしたことはパストラルケアにおける重要な側面となります。
 葬儀の後などで、故人の納骨の日をいつにしたらいいだろうかと遺族の方々から訊かれることがあります。そのときわたしは上述の話を参考までにおはなしします。もっともこれについてはご遺族のご都合やご意向が最優先ですが、逆にご遺族の側が、納骨の日にちを決めるのに、いったい何に基準や重点を置いていいか解らない、という場合には、故人の「帰天」と「葬儀ミサ」をキリストの死と復活に重ね合わせ、「復活祭から聖霊降臨祭までの期間を基に、40日 後から60日後というのはいかがでしょうか?」と、受け答えしたりします。(基本的にケースバイケースですが、仏式に慣れておられるご遺族ですと「いつでもいいですよ」という答えでは返って迷われてしまうことがあり、これは大変デリケートな問題です。) 
 復活者キリストは40目の間、弟子たちと共にいて、その後、天に上げられましたが、しかし、それによって弟子たちはイエスと離ればなれになってしまったわけではなく、むしろ以前にも増して両者がひとつになったのです。だからこそ(ひとつになったからこそ)、彼ら(弟子たち)の目には(かたちあるイエスの容姿が)見えなくなったのであって(使徒1:3-9)、こうして「復活者キリスト」と「弟子たちの集まり(教会)」とが49日間かけて一体化し、50日目の「聖霊降臨」という出来事に至りました(使徒2-3)。イエスのうちに働いていた「神の命」がついに弟子たちのうちに働きはじめたのです。
「聖霊の降臨」というと通常は「賜物の授与」だけが強調され勝ちですが、地上の人たちと、みもとに召された人たちとを繋ぐ大いなる命の営みこそは、「聖霊の働き」であることを、わたしたちは忘れてはならないと思います。

 


  幻想紀行(3)
                        加藤 豊 神父

 3月1日(土)チェコ共和国の地方都市 「オロモウツ」へ入る。どうしてこんなに平和なのかと思えるくら い、途中あっさりと国境を越えてしまったのだが、困ったことにホテルに着くまで両替えが出来なくなった。ポーランド同様、チェコも都会でなければユーロは使えない。但し、ユーロの徹底はポーラ ンドよりもチェコのほうが早いだろう。なにしろこの先、数年もしないうちにチェコの通貨である「コルナ」は無くなってしまうのだから。ところでこの「オロモウツ」という街だが、どうやらこれまで日本人はほとんど入ったことのない街であるらしい。
 3月2日(日)この日は主日だったので、わたしたちはその「オロモウツ」の小教区である「聖モツジ教会」の主日のミサに参加した。結果わたしたちは「オロモウツの教会を訪れた最初の日本人信者」となった。但しこの時、現地の人たちとわたしたちとの間には「初めてだから」ということから生じる違和感のようなものは何もなかった。それはやはり聖モツジ教会が純然たる「小教区」だったからに他ならない。そこは徹頭徹尾「小教区」であって、観光地の(ミサが行われていない形だけの)教会などではない。だから多摩教会で目にするものはそこにもあった。香部屋でミサの準備や司祭の手伝いをする奉仕者(ベテランから若者まで)の姿。また、ミサ後に献金を集めて保管する係の人たちや献身的なご婦人たち。そこが「小教区」である限り、世界各地のどこででも見かけるような光景が展開するのを見て、わたしたちはどれほどホッとしたことだろう。
 いうまでもなく、そこは「オロモウツ」。「多摩」ではない。そんなことは解りきったことだ。聖堂が違う(聖堂は15世紀に建てられたもの)。言葉が違う。顔ぶれも違う。だが、そこで行われているのはどこまでもわたしたちの主日のミサであり、そこは「小教区」なのである。何度も言ってしまうが、遠く旅先で出会うものは結局もう一人の自分なのであり、それゆえわたしたちは自分が「何処にでもいる誰か」であるということをもっと大切にしてもいいと思う。
 何年前のことだったろうか、日本では「世界で一つだけの花」という歌が流行った。競争社会には一服の清涼剤であったろう。いい歌だったと思う。しかし、それによって「何処にでもある花」の尊さは増々忘れ去られてしまったような気がしてならないのだ。
 この日の夜、わたしたちはチェコの首都プラハに入った。ポーランド巡礼からこの日までずっとわたしたちのためにバスを運転してくれたドライバーのボーテックさんとはお別れしなければならなかった。「ドヴィゼェニャ」(「さようなら」の意)。余談ではあるが、最近「EU」ではポーランド人バスドライバーが人気だそうである。真面目で勤勉、控えめで慎重、手堅い判断力、などが理由らしい。ボーテックさんはまさにこれらすべてにあてはまっていた。
 3月3日(月)プラハ旧市街を巡る。ガイドさんはチェコ在住の日本人女性で横井さんという人であった。このところ、東欧・中欧はあらゆる専門家たちの注目を集めているが、横井さんもまたチェコという国の魅力とその不思議さに取り付かれてしまった一人である。
 プラハ旧市街は街全体が活気に溢れていた。ちょうどヨーロッパでも卒業旅行や修学旅行のシーズンだったので、もともと観光客が多いプラハはきっといつも以上の人通りだったのだろう。なにしろ現在プラハは世界の観光名所としてローマを凌ぐ第3位となっているそうだ。
 わたし自身は「プラハ」と聞くと、ついこの間までは「風光明美」というイメージであった。「石畳の細い路地」、「行けども、行けども辿り着かず(カフカの小説「城」に出てくるような)どこが入り口かわからない建物」などを勝手に思い浮かべていた(確かにそれらは今でも健在だが)、しかし現在ではむしろ都会のエキサイトメントのほうが際立ってきている、という気がした。旧「ユダヤ人街」もいまとなっては「パリ通り」と呼ばれるくらい、有名ブランド店が立ち並んでいる。それはまるで 「銀座」のようだった。そもそもプラハ旧市街そのものが度々ヨーロッパの時代劇の撮影で使われている現状を思えば、プラハはあたかも街全体が「太秦」のようである、ともいえる。これからは商業都市として大いに発展して行くのであろうが、それはチェコ人にとって葛藤にもなっている。「景観は崩したくない。しかし、都市化は止められない」。という日本と似たような苦悩がチェコにもある。最近ではマドンナ(アメリカ人女性歌手)がプロモーションビデオの撮影のために「カレル橋」をまる一日借りきったという。いやはや頭の痛い話である。
 ところで、チェコはカトリックの国ではない。もちろんカトリック教会は随所にあるが、おもだった教会の聖堂は普段コンサートホールとして使用されていたりする。そのせいか、巡礼団の訪問があるとそれに伴ってミサがあるわけで、現地の教会関係者は喜びいさんでわたしたちを歓迎してくれた。そういう柔軟性(?) はいかにもチェコ人らしく感じられた。たとえば社会主義時代には、なんと教会の塔が国家警察の監視塔だったようだ。そのような柔軟性(というより「実用性」か?)によって、「信仰」よりも「経済」を優先させた点は17世紀のオランダを想わせるものがある。当時オランダはその選択によって鎖国中の日本とも貿易出来ていたのだから、まさに「プロテスタンティズムと資本主義」という本のタイトルが示 す通りなのである。
 もっとも日本人の多くは「宗教改革」などというとすぐにルターの名を思い出してしまうであろう。まったくもって日本は「西側」の国である(東にあるのに)。だから仕方ないのだが、チェコではドイツに先んじで100年は早く宗教改革が実施されている。「ヤン・フス」の改革がそれである。そういえば、そのヤン・フスをはじめ、ヤン・ネポムツキー(こちらはカトリック側の聖人)、ヤン・パラフ(1969年に「プラハの春」でソ連軍に抗議したカレル大学の学生)など、チェコ人の革命家にはなぜか「ヤンさん」が多い。そしてこのヤンさんたちの精神をいまもチェコ人たちは受け継いでいると思う。もともと「体制による呪縛や圧力」にはとても敏感な国民だったと思うし、いかなる時代にあっても民主化の情熱に溢れ、いざとなれば「名を捨てて実を取る」ことができる人たちであろうと思う。ガイドの横井さん曰く、「アンバランスがバランスの国ですからね」とのこと。いわれてみれば観光客で賑わプラハ旧市街でさえ、時代や様式の違う建築物が一見無造作に乱立しており、お世辞にも統一感があるとはいえず、秩序を重んじるドイツ型建築の発想からはかけ離れたアンバランス加減である。ただ、ふと思ったのだが、普段は気づかないが実は「東京」もそうなのだ。木造家屋の真横に鉄骨の「アバンギャルドなわけのわからないビル」が建っていたり、外観は別々の棟に見えても本当はそれがーつの建物で、その内部は自由に行き来できるようになっていたり、といった具合である。やはりわたしたちが旅先で発見するものは詰まるところ自国なのかとまたもや感じてしまったのであった。
 3月4目(火)ついに帰国日となった。ミサは旧ユダヤ人街の中心にあるドミニコ会の教会(これまたかなりアンバランス感覚であるが)で捧げられた。午後は自由行動だったので、わたしは独りプラハ旧市街をぶらぶらした。治安のいい街なのでこういうこともできた。イースター休暇にやってくるであろう観光客 向けの露店が既に準備されつつあった。その手前を通りながらわたしたちは帰国の途に着いた。
 さて、今回この紀行文のタイトルを「幻想紀行」としたのは、 ポーランド人であるショパンの即興曲にこじつけてそうしただけで、そんなに深い意味はなかった。とはいえ、人は「1回の旅行で4回旅をする」という。先ず、1)旅に出る前の準備、これは旅立つ前の心の旅である。次に、2)本体である実際の旅行、またその次に、3)思い出すという心の旅、最後に、4)それをまとめる心の旅である。こうして旅行は完成し、3)と、4)は機会ある度に行われることになるのだが、それはいわば「実像」に対する「幻想」であ るといえよう。だからこの紀行文の原稿執筆はわたしにとって今回 の巡礼を自分なりにまとめるための「心の旅」となった。それにしても「幻想紀行」などというタイトルにしたのは失敗だった。本文 も読み返してみると気取った物言いで恥ずかしい限りである。しかしそんな「心の旅」もようやくこれで終わる。ご拝読くださった皆さんに感謝。ポーランドに「ジェインクイェン」。チェコに「ジュクュバーム」。神に感謝。


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