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2008年12月号 No.424  2008.12.19

どちらがいいですか?
加藤 豊 神父
ペトロ岐部と187人殉教者列福式に参加して 斉藤 ハルノ
カスイ岐部と187人列福式に参加して
本江 敏子
小教区のあり方を考える 北村 司郎

どちらがいいですか?

                           加藤 豊神父

 もし、なれるとすれば、どちらがいいですか? ローマ帝国の皇帝と、旅の途中で泊まる宿もなかった両親から生まれた赤ちゃんと。それとも、どちらも嫌ですか?
 歴史に名を刻む著名な人物たちの多くは、こんにちでもその魂の極端さをわたしたちに示しています。たとえば「英雄」と目された人たちの場合、わたしたちの眼から見て、一見「それはちょっと」と思えることをも飲み込んでしまい、行く手に立ちはだかるリスクをものともせず、むしろ、それを必然であるかのように許容しては、巨大な自我を貫いて前に進みます。
 これに対して、たとえば「聖者」と目された人たちの場合、やはりわたしたちの眼から見て、「それくらいは」と惜しまれるような益でさえあっさりと捨て去ってしまい、そのために生じる不自由をも迷わず許容し、ひたすら自我の放棄に徹して生きようとします。
 ところで、わたしたちのほとんどが、というか、人間のほとんどは、できればナポレオンにもガンジーにもなりたくはない。羨んだり、尊敬したりすることはあっても、です。
 では、「英雄」でもなく、「聖者」でもなく、わたしたち自身はどうか、といえば、およそ苦痛の原因となり得る物事に自分で執着しておきながら、そこから苦痛だけを上手く取り除くことが出来るはずだと思い込んでいる、といったところでしょうか。低タールのタバコを喫ってみたり、カフェインのないコーヒーを飲んでみたり、その他にも似たような事例はきっと山ほどあります。美食を好むその一方でダイエットに励む人の数は年々増加のー途を辿っていることでしよう。
 だから「皇帝」か「赤ちゃん」か、と唐突に問われても、どちらも選択できないのが人情で、わたしたちの心は気づけばその両者の間にあって揺れ動いているのです。いえ、そうじゃない。揺れ動いてもいないのです。
 「皇帝」と「赤ちゃん」、片方はどのような人をも一言で動かしてしまう権力者、もう片方は世の荒波に翻弄されるだけの名も無き家族の一番弱い立場にあります。
「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」(ルカ2:1−5)。
 しかしながら、人々がどちらをも受け入れ難い人生として遠ざけ、人情に則した「いいとこ取り」を折よく果たせていたとしても、「降誕祭」そのものからこの「赤ちゃん」の存在を切り離すことなどは絶対に出来ないし、今もこの「赤ちゃん」がわたしたちの悲しみや失望を担ってくれていることに変わりはないのです。


ペトロ岐祁と187殉教者列福式に参加して

                             斎藤 ハルノ

 11月24日長崎ビッグNスタジアムで、1603年から1639年に殉教したペトロ岐部神父と187人の尊者の列福式ミサが白柳誠一枢機卿の司式で執り行われました。国内外から3万人が参列し、祈りました。あいにくの雨の中、開祭されましたが、ローマ法王ペネディクト16世の代理として出席したジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が列福を宣言されたころには雨は止み、雲間から太陽の光が射してきました。
 式では、はじめに殉教者ゆかりの土や、顕示台におさめられた聖遺物(遺骨)が祭壇に安置されました。聖遺物は、殉教者達が生きて信仰のために命をささげた証しですが、当時日本から追放された宣教師らが長崎を出てマカオヘ向かう船に乗せ守っていたもので、1995年にマカオ教区から返還されたものです。
 1981年教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日を機に開始された列福運動に始まり、調査、申請、承認と20数年間の歳月をかけ、多くの人の尽力と全国の教会の祈りが実り挙行された列福式は、大きな喜びと深い感動に包まれていました。
 白柳枢機卿は今回の列福式について、まず殉教者という言葉の意味を「カトリック教会では伝統的に、信仰の真理を証しするために、すなわちイエズス・キリストの恵み、神様の愛を忠実に証明するために、命を捧げた人」とはっきりさせた上で、その特徴を挙げられました。まず―つに、今回の殉教者は全員日本人であり、日本の各地から選ぱれ、、時代を超えて尊敬され続けてきた人たちであることです。その大半は信徒ですが、ペトロ岐部神父をはじめ4人の司祭がおりました。男性121人、女性67人。年齢は80歳から1歳までおり、職業も様々でした。二つ目に、一家揃っての殉教、主人・妻・子どもたちというケースが大変多いことです。司祭たちによる熱心な信徒の育成、司祭たちが決死の覚悟で頻繁にひそかに信徒の家庭を訪れ、ミサ、許しの秘跡を授け、励まし続けたこと、また、家族一体となぅての信仰の実践、近隣の信徒の家庭が一緒になって小さな教会の役割を果たしたこと、特に迫害下では、家庭教会として信徒たちが役割分担して、子供たちに教理を教えたり、一緒に祈ったりして信仰を深め、神様の特別な恵みで殉教をも受け入れることができたのです。三つ目に、日本の迫害は他国に比べて大変長く続き、弾圧の徹底さ、残酷さも世界に類のないものであり、この度の殉教は1603年熊本八代の殉教から1639年江戸の殉教までの36年間に殉教した方々の一部であることです。キリシタン研究家でもある溝部脩司教によると、名前、殉教の日時、場所等正確に分かっている殉教者だけでも5500人をくだらないそうです。また、確かに殉教しましたが、名前のはっきりわからない者は約2万人にも及ぶといわれています。
 白柳枢機卿は、殉教者たちが私たちに何を伝えたいのか、彼らの列福にはどのようなメッセージがあるのかについて、語られました。一つは、使徒パウロのローマの教会への手紙に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。‥・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とありますが、日本の殉教者も聖パウロと同じことを叫び、神様の恵みに信頼して信仰に生きることを恐れるなと私たちに叫び続けていることです。二つ目に、家庭で皆揃って神のみことぱに親しみ共に祈る、そのような死よりも強い愛で結ぱれた家庭を作るように殉教者たちは強く呼びかけています。その様な家庭は、生きる喜び、生きがい、充足感に満ちています。殉教した家族は、「信仰・希望・愛」に堅く結ばれ共通の価値観を持ち、何が起きても動ぜず、困難に遭遇すれば互いに助け合い、励まし合いました。社会を構成する最小の基本的共同体である家庭がしっかりしていれば、社会もしっかりしたものになります。三つ目に、キリシタン時代の信徒が近隣の方々と温かい交わりを大変大切にしたように、私たちの教会、信仰共同体が隣人との交わりを大切にし、隣人を愛し、神の愛を目に見えるしるしとなるよう、殉教者は呼びかけています。
 更に、毎年3万人以上の自殺者が出る日本の社会に呼びかけています。生きること、死ぬということはどういうことか。人間は何のために生きるのか。人生の目的、人生の意義とは何か。苦しみには意味があるのか。このような、人生の根本問題について私たちが深く考えるように呼びかけています。信仰の自由を否定され、殺された殉教者は叫んでいます。神の似姿に作られた人間の尊厳性、また、人間が持つ固有の精神的能力、判断し表現する自由などの重要性、それに反するあらゆることを避けるようにと強く呼びかけています。中でも、人間の生きる権利が胎児の時から死にいたるまで大切にされること、また、現代の問題では、武器の製造、売買それを使っての殺人行為である戦争、極度の貧富の差により、非人間的生活を余儀なくされているものたちへの配慮など、すべての人が大切にされ尊敬され、人間らしく生きられる世界となるように祈り活動することを求めています。恐れずに私たちも一緒になって進みましょう。恐れるな。恐れるな。神様はそして殉教者が叫んでいます。白柳枢機卿はお説教の中でこのように語られました。
 殉教者の列福のメッセージを全身で受け止め、殉教者の命がわたしたち一人ひとりの信仰としてたくさんの実を結んでいることに深く感謝し、世界に佳むすべての人が信仰や愛を強め、平和のうちに希望をもって生きることができるようにお祈りしたいと思います。
 キリストが殉教者を通してご自分を示されたこと、「信じぬくこと、希望すること、そして愛すること」を受け継ぎ、未来に向けて守り伝えていくことができるよう、信仰生活に知恵と勇気を与えられるよう、お祈りしていきたいと思います。
                                                      神に感謝。


カスイ岐部と187人列福式に参加して

                            本江 敏子

 大分教会に所属する母から、カスイ岐部神父の列福式に一緒に行こう、と誘われたのはもう3年くらい前のことでしょうか。地元から凄い人が出たということで、岐部祭が行われたり、信者でない人たちからの関心も寄せられて、県民オペラの題材になったり、カスイ岐部列福運動は大分教区内では早くから盛り上がっているようでした。しかし、私はといえば、そういう話を聞いても、大した興味も湧かず、娘と長崎に行くのを何より楽しみにしている(らしい)母を喜ばせるために、ほとんど親孝行のつもりで、参加を決めたのでした。(大聖堂での荘厳ミサを思い描いていたのに、行われるのはスタジアム、と聞いたときは相当がっかりしたものです。)

 けれども、さすがに間近になると、このままではまずいと思い、知り合いのシスターから薦められていた殉教者についての絵本を読んでみました。ところが、どうしようもなく気持ちが沈んでいったのです。20数年前、受洗して間もない頃に日本26聖人についての本を読んだ時はとても感動して、信仰の力は素晴らしい!と、あれほど心が燃えたのに、あの純粋な感覚がまったくないのです。

 FEBCのネット放送で、イエズス会の神父様たちのお話も聞きました。けれども、殉教の向こう側におられる御方の愛に思いが及ぶ前に、彼らの悲惨な死に様の方が強く迫ってきて、恐れに囚われるのでした。そして、心が晴れないまま、殉教は特別な恵みがなければできないのだから、恵みのない私が嫌気や恐れを感じるのは当たり前、と自分を納得させようとしたのです。

 そんな時、「せっかく行くんだから少しは勉強すれば?」と、親しい友人が「ペトロ岐部と187殉教者」という本を貸してくれました。その中の溝部司教様のインタビュー記事を読んだとき、この重苦しさの原因が自分の信仰の曖昧さ、いや、むしろ不信仰にあると気づき、ショックを受けたのです。特に、「<私には殉教できません>と多くの人が言います。しかし、あえて厳しい言い方をすれば<あなたは何を信じているかはっきりさせなさい>と問い返したい。信じていることがはっきりしないで死ぬことはできません」というくだりは胸に突き刺さりました。“恵み”という言葉を“逃げ”に使っていた自分にも気づきました。そして、その瞬間どういうわけか、一気に気持ちが浮上し、列福式に対する期待感が生まれ、行くのが楽しみにさえなったのでした。

 ところが、前日に飛行機で長崎入りして、大分からバスで来た母たち(大分教会の母の若いお友達NさんとAさん、そして、Aさんのご両親)と合流、一泊して迎えた当日の朝、窓から土砂降りの雨を見た時は、とんでもないところに来てしまったと、愕然としたのです。式があるのは屋根なしのスタジアム。参加者2万9千人。それを聞いただけでも気が遠くなりそうなのに、雨?!しかも、傘厳禁!100均で買ったビニールの雨合羽が本当に役立つとは思ってもみませんでした。私たちは口々に、「12時には絶対止むから大丈夫!ペトロ岐部は聖人なんだから」と勝手なことを言って、慰め合ったのでした。本当に、タクシーに乗る頃には、雨はぴたりと止み、大喜びしましたが、事はそううまく運ぶはずもなく、会場にいる間しばらくは、時おり激しく降る雨に加え、風や雷にまで悩まされることとなりました。

 大分教会のメンバーとして参加した私たちの場所はブルーシートが敷き詰められ、その上にぎっしりとパイプ椅子が並べられたアリーナ席の左側後方。開祭一時間前、やっと混雑を抜けてたどり着いた時には、前の方の席はほとんど埋まっていました。私たちは気配りの利くAさんのお陰で、何とか後ろから2列目の席に6人並んで座ることが出来ました。祭壇が人々の頭越し、遥かかなた右の方に小さく見えました。前方にはスクリーンが2つ掲げられ、私たちはもっぱらそのスクリーンを通して、式に参加することになりました。

 今日こそ神が造られた日♪と開祭の歌を歌い始めたときは不覚にも涙がこみ上げてきて、自分でも驚きましたが、総じて、式は淡々と進行し、列福宣言も淡々と行われました、と私は感じました。これが屋根付のドームであれば、3万人近くの人々の祈りの気が充満し、場内はもっと聖なる高揚感であふれていたかもしれません。しかし、巨大スタジアムでの野外ミサ。人々の祈りも歌声も拍手も、すぐに空中に拡散していくようで、少々寂しい感じがしたのが正直なところです。

 それでも、マルティンス枢機卿様をはじめ司教様方、500人もの司祭団が入場する様や、祭壇の上に並べられた夥しい数のカリスは、スクリーンを通して見ても圧巻でした。大勢の司祭たちが各所に散ってご聖体を配る様子は何かしら感動的でしたし、冷えと戦いながらの3時間半のミサが、そう長くは感じられなかったのも不思議でした。(もっとも、Aさんのご両親や、高齢で足の悪い母はさぞ疲れたことでしょう。母など、終わるやいなや、「ああ、やっと終わった!終わった!」と言って、ニコニコしたのでしたから。もちろん、それは彼女の達成感から発せられた言葉に違いありませんけど・・・。)

 こんな全体的な印象とは別に、私の心に深く刻み付けられたことがあります。それは殉教者紹介の時に、福岡教区の宮原司教様が紹介してくださった、「私たちのしていることは、今は理解されないかもしれませんが、いずれ理解される時がくるでしょう」という小笠原家の奉公人の一人の言葉、そして、最後の最後にスクリーンに大映しにされた殉教者の遺骨です。
 彼らは確かに列福され、その奉公人の予言は当たりました。彼らを理解している人々は今や大勢いるのです。でも、この私は本当に理解しているのか・・・。私はまたもや、このような問いを投げかけられた気がして、ハッとしたのでした。そして、遺骨・・・それは殉教が確かにあった、という厳粛な事実を私の眼前に突きつけました。その存在感は圧倒的でした。誰のものか特定できないというその遺骨は、けれども、一人の生身の人間がかつて確かに生きていたこと、命を賭けて信仰を証したことを、圧倒的な存在感をもって示すものでした。

 そろそろ、私は本当に自分が何を信じているか、はっきりさせなければならないのでしょう。パウロのように私も言いたい。「・・・主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、(わたしたちは)知っています」と。「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」と・・・。・

 ところで、白柳大司教様のお説教の頃には、雨はすっかり上がり、危うくうたた寝しそうになるくらい暖かくなったのですが、大司教様が話の終わりに力強く、「恐れるな、恐れるな」と連呼されたあたりでは、雲がはっきり割れて、太陽の光がまぶしく射し込んで来たのです。その後、祭壇上でパンとぶどう酒が捧げられた時も、閉祭の儀で大司教様が「身体は冷えても、心は燃えてお帰りください」と私たちをねぎらってくださった時も、雲間から、光は真っ直ぐに私たちの上に射してきたのでした。雨が気になって、スクリーンと空を交互に見上げていた私の目に、その光はまるでキリストの励ましのように感じられました、と言いたくなるほどのタイミングで・・・です。

 今回の列福式のお陰で、今まで話に聞くだけだった大分教会の素敵な方たちと知り合いになり、貴重な時を共に過ごすことができて、本当に嬉しかったです。ホテルの手配から何から、色々と大変お世話になりました。この場をお借りして、心からお礼申し上げます。

 また、最終便に乗るためひとり急いで会場を出て大混雑に巻き込まれ、右往左往していた時に、突然、多摩教会の中村真理子さんから声を掛けられたことも、嬉しい驚きでした。中村さんはシスターのお姉様に誘われて、お嬢様とご一緒に一般枠で参加されたということでした。これも東京から一人で来て、ちょっぴり寂しい思いをしていた私への、神様の優しい計らいに違いないと思い、感謝しています。

 このように色々なことを振り返っていると、列福式に参加できたのはやはり大きな恵みであったと、参加して本当によかったと、心から思います。今更ながら、殉教者たちに、式の実現に向けて尽力してくださった多くの方々に、そして、親孝行するはずが、かえって、子孝行してくれた母に、心からの感謝を捧げます。ありがとうございました。



小教区のあり方を考える
                             北村 司郎

 今年の信徒セミナーで森司教様から小教区についてのお話を伺った。このまま終わらせるにはもったいない、と私は考えたので多摩教会の歴史を通して小教区を考えてみたい。
 教会と訳した言葉はギリシア語のエクレジアと森司教は話されたが、新約聖書の中にはエクレジアという言葉は3回しか出てきていないそうだ。事実イエスの生存していた時には、建物として、組織としての教会は存在していなかったのではないかと思う。しかし、エクレジアを「寄り合い」と訳すならイエスを中心にその弟子たちの集まりはまさにエクレジアなのだと思う。
 多摩教会の始まりのとき、この多摩の地に教会を、という私たちの要望に対して、白柳大司教様(当時)は「教会は建物ではありません。イエスが言われたように、私の名によって集まるところが教会なのです。」と答えられました。その意味からすれば、最初のクリスマスミサ(実際には12月26日)を行うために数人の信徒たちが集って相談をした71年の10月頃が多摩教会の誕生ではないかと思う。
 組織としての誕生は72年5月、白柳大司教からの文書によってであろう。その文書の中には主任司祭名と連絡先の他に現在のところ一定の聖堂など建物はありません、と一筆加えてあるのがおもしろい。即ち、東京教区は教会の必要条件として建物を考えていなかったということである。建物を持たない多摩教会はその年の復活祭は家庭ミサ、被昇天は聖蹟記念館裏庭、クリスマスは市役所前の農協のホールを借りて行った。被昇天もクリスマスも100名以上の参加者があり、クリスマスには受洗者も出ている。やがて、借家から賃貸マンション、そしてマンションの一室というように建物を持つようになるが、かおり保育園の2階聖堂も長い間、多摩教会の拠点となった。
 建物を建てるためには、土地を必要とし莫大な資金が必要である。私たちの実力では到底建物を持つことは出来ない。日曜日の何時間しか使わない聖堂をもつよりもっと必要な活動があるはず、そのためにはまさに「寄り合い」を大切にしたのである。最初の頃はミサは家庭ミサであったため、ニューズの裏にはミサが行われる家庭の地図が印刷されていた。そして、信徒の皆さんにはできるだけそれを知らせるため、発行日には自分の近くの家庭に信徒が手分けして配達したものである。
 現在、多摩教会は建物を持ち、信徒数も教区の中では中規模以上の小教区になった。多くの人が集まるようになると、森司教が言われるようにエクレジアではなくチャーチ、即ち建物に中心を置<ようになる。これは多摩に限らずどこでも同じであろう。それも必要なことではあるが、今一度教会の本質を問い直し、この教会の中で信徒一人一人が何が出来るかを考える必要があるのではないだろうか。幸いなことにと言ってよいと思うが、多摩教会は宣教師が外国の信徒からお金を集めて建てられた教会ではない。「寄り合い」という意味から出発した事実を大切に、それを大きくなった現在、どのように具現化するかが重要だと思う。これは多摩小教区だけの問題ではなく日本の教会が抱えている問題でもあると思う。


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